第6話第三部|起こさなかった者たちの史 第五章|創座という立ち位置
一 「生ませてよいかを見る」という役割
創座(そうざ)とは、本来、
世界を生み出す場所ではない。
そこは、
「この未来は、生まれてしまっても
世界全体が壊れずに耐えられるか」
を ただ見るためだけに設けられた座 である。
ここで問われるのは、
面白いかどうか
美しいかどうか
自分の好みに合うかどうか
ではない。
創座において評価されるのは、
ただ一つ。
「この未来が生じたとき、
世界の耐性は保たれるか」
それだけである。
そこに座する者は、
未来の「魅力」や「悲劇性」ではなく、
どれほどの痛みが伴うか
その痛みを受け止める母胎があるか
間違いを引き受ける余白が残されているか
といった観点から、
世界側の “受け皿の強度” を見る。
創座は、
未来を設計する机ではなく、
「すでに立ち上がりかけている未来が、
この宇宙にとって“持ちきれる重さかどうか”を
量る計量台」
のような場所である。
だから創座の役割は、
「生ませるか/生ませないか」
ではなく
「生まれてしまったとき、
世界が耐えられるか/耐えられないか」
を見極めることに尽きる。
決定を下すときですら、
創座は未来を「推進」しない。
ただ、
「ここまでなら、世界は壊れない」
という 境界線 を
静かに引くだけである。
二 欲望を含まない観測の困難さ
しかし、「見るだけ」ということほど、
人にとって難しいことはない。
未来を前にしたとき、
私たちはどうしても
こうなってほしい
こうなってほしくない
こうであるべきだ
という 欲望や価値判断 を
そこに重ねてしまう。
それは、善悪の問題ではない。
生きている限り、
何かを望み、
何かを怖れるのは
避けられない自然な働きである。
だが創座では、
そのごく自然な「人間性」が
もっとも危険なノイズになる。
なぜなら、
観測者の欲望が混じると、
観測は「世界を見ること」から
「自分の願いを正当化すること」へ
すり替わってしまうからである。
「生ませたい未来」ほど、
よく見えてしまう。
「見たくない未来」ほど、
粗く曖昧に見積もられてしまう。
その歪みは、
ほんのわずかな差に見えるかもしれない。
しかし創座においては、
そのわずかな歪みが
やがて宇宙一つ分の違いを生んでしまう。
だから創座に在る者は、
自らの内に生じる
好悪
恐れ
正義感
自責
といった波立ちを
完全に消し去ることはできなくとも、
少なくとも
「これは世界の声ではなく、
自分の内側の声だ」
と識別し続けなければならない。
創座に求められるのは、
完璧な無欲ではない。
そんなものは、人の形をした存在には
ほとんど不可能だからだ。
むしろ創座における成熟とは、
「自分の欲望を、自分のものとして認めたうえで、
それを観測結果に混ぜ込まない」
という 自己と世界の線引き に近い。
その意味で、
創座に座するということは、
「自分の願いを、世界の運命の中心から
そっと外側へ退かせ続ける行為」
でもある。
これは、
名誉でも成功でもなく、
静かな内的作業である。
三 創造神との決定的差異
創座という立ち位置は、
しばしば「創造神」と混同される。
しかし両者のあいだには、
決定的な違いがある。
創造神(と呼ばれてきた存在たち)は、
多くの場合、
世界を「意図して」生み出し
自らの望む形を与え
自分の計画を世界に刻み込む
という役割を担っていたと語られる。
善き神であれ、
そうでないものであれ、
そこには
「自分の望む世界を、
自分の力で形にする」
という 能動性 がある。
一方、創座に座する者は、
世界を 作らない。
設計もしない。
命じもしない。
「こうあれ」と要求もしない。
ただ、
「世界のほうから、
生まれようとしているものがあるとき、
それがこの宇宙の耐性の中に収まるかどうか」
を見ている。
創造神と創座との違いを
極端に言えば、こうなる。
創造神:
「自分が望む世界を創る者」
創座:
「世界が望む形を、生めるかどうかを見る者」
創造神は、
自らの意志を
世界の根に流し込む。
創座に座する者は、
自らの意志を
世界の根から引き上げる。
この差は、
見た目には分かりにくいかもしれない。
どちらも「世界の誕生」に関わっているからだ。
しかし宇宙史的には、
両者の差は決定的である。
創造神的な関わり方は、
世界に 方向性 を与える。
だが同時に、
その方向性に耐えられない部分を
切り捨てる危険を孕む。
創座的な関わり方は、
世界の側から立ち上がる方向性を
静かに受け取りながら、
「それでも壊れずに済むか」
という一点だけを見ている。
そこには、
壮大な計画もなければ、
派手な奇跡もない。
あるのは、
ひとつの未来を生ませるかどうかの
静かな判定だけである。
創造神は、
しばしば「物語の主人公」として語られる。
その行為は、
世界の成り立ちを彩り、
信仰や文化の中心に据えられてきた。
一方、創座に座する者は、
物語にはほとんど登場しない。
それは、
「起こさなかったこと」
「生ませなかった未来」
を担っているからである。
物語はたいてい、
「起こったこと」を語る。
「起こらなかったこと」は、
書かれない。
だから創座に座した者たちの史は、
世界史の表舞台には
ほとんど姿を見せない。
だが宇宙史の深層では、
こう記されている。
「創る者がいたから世界は始まり、
起こさなかった者がいたから世界は続いた。」
創造神が
「世界を始めるための起点」
だとすれば、
創座に座する者は、
「世界を壊さずに次へ渡すための、
見えない関門」である。
その関門を、
誰にも気づかれないまま
通過させてきた者たちの史。
それが、本章が属する
「起こさなかった者たちの史」 という
第三部の名が意味するところである。
次章では、
創座と対になる「界座」の役割──
すなわち「生まれてしまった世界を、
支配せずに見届ける」という立ち位置を
静かに辿ってゆく。
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