夜の温度

おげんさん

第1話

夜の温度


男は、自分がいつから「疲れている」という言葉を説明に使うようになったのか、思い出せなかった。

便利だった。

どんな問いにも、それで答えられた。


どうしたの?

最近どう?

元気?


全部、「疲れててさ」で終わる。


終電前の電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見る。

目の焦点は合っているのに、どこも見ていない顔だった。


スマートフォンを取り出し、無意識に画面をスクロールする。

ニュース、誰かの怒り、誰かの正しさ、誰かの失敗。

指は止まらない。


昨今のインターネットの普及により本音が良くも悪くも赤裸々になった。

画面越しに言葉で誰かを傷付けるのも簡単になり、誰かに傷付けられるのも簡単になった。

何かを考えたいのに、何を考えたら良いのかわからない。

大抵の答えはネットで得られた。

だから当たり前なことを当たり前に考えなくなった。

それが当たり前だから。


駅を出ると、夜は思ったより生温かかった。

季節の境目は、いつも曖昧だ。

曖昧なまま、気づいたら通り過ぎている。


帰宅ルートを外れたのは、気まぐれだった。

いや、気まぐれというほどの意思すらなかったかもしれない。

足が、少しだけ別の方向を選んだだけだ。


ネオンが途切れ、路地が始まる。

古いビルの影、半分壊れた看板、営業を終えたバーの裏口。

そこに、人が立っていた。


若い女だった。

二十代前半だろうか。

年齢を当てること自体が、もう失礼な気がした。


短すぎないスカート。

厚手ではないコート。

この時間、この場所にいる理由が、服装から透けて見える。


「こんばんは」


声をかけられて、男は立ち止まった。

無視することもできた。

いつもなら、そうしていた。


「時間ある?」


質問は簡潔だった。

条件も、値段も、続かない。

ただ、確認だけ。


「ない」


反射的に答える。

嘘ではない。

家には帰るべき時間だった。


それでも、女は離れなかった。


「じゃあ、ちょっと話すだけ」


その言い方が、不思議と胸に残った。

営業の間合いではなかった。

焦りも、媚びも、過剰な笑顔もない。


まるで、話すこと自体が目的であるかのような声だった。


二人は路地の端、自販機の前に並んだ。

男が缶コーヒーを買うと、女は一瞬だけ驚いた顔をしてから、静かに礼を言った。


「甘いの?」


「いや」


「じゃあ、苦いやつだ」


女は缶を受け取ると、すぐには飲まなかった。

両手で包み、温度を確かめる。

その仕草が、妙に生活感を帯びていて、男は目を逸らした。


「仕事帰り?」


「……そう」


「スーツの人、だいたいそう言う」


責める調子ではなかった。

統計を述べているような、淡々とした口調だった。


「大変?」


男は、少し考えた。


「大変ってほどじゃない」


「でも、楽しくもなさそう」


否定できなかった。


沈黙が落ちる。

通り過ぎる車の音。

遠くの笑い声。

それらが、すべて別の世界の出来事のようだった。


「ねえ」


女が言う。


「生きてるって感じ、する?」


唐突だった。

だが、不思議と突飛には思えなかった。

むしろ、ずっと誰かに聞かれるのを待っていた質問のようだった。


「……わからない」


「正直だ」


女は小さく笑った。


「私もね、ここに立ってる時は、生きてる感じしない。

でも、誰かとちゃんと話してる時だけ、ちょっと戻る」


「戻る?」


「人間に」


その言葉は、軽かった。

冗談のようでもあった。

それなのに、男の胸の奥に、静かに沈んでいった。


会社では、成果と数字。

家庭では、役割と沈黙。

名前を呼ばれることは、いつからかなくなっていた。


「名前、教えてよ」


女が言った。


男は、一瞬ためらった。

この夜を、現実にしてしまう気がしたからだ。


それでも、名乗った。

女も、名を告げた。

本当かどうかは、わからない。

だが、その音だけは、確かに耳に残った。


時間は、それ以上伸びなかった。

女は立ち位置に戻り、男は帰路につく。


「無理しないで」


別れ際、女はそう言った。


「無理してる人って、だいたい自覚ないから」


そして、少し間を置いて。


「あんた、ちゃんと人間だから」


その言葉が、どうして言えたのか。

彼女にとって、それは何度目の台詞だったのか。

男には、わからない。


家に帰り、スーツを脱ぎ、風呂に入る。

鏡に映る自分は、さっきと変わらない。


それでも、胸の奥に、温度だけが残っていた。

缶コーヒーのぬくもりのような、すぐに冷めるはずのもの。


翌日も、仕事は同じだった。

上司は同じことを言い、同僚は同じように疲れていた。


ただ、男は時々、思い出す。

夜の路地。

立っていた女。

「人間だ」と言われた瞬間。


それが救いだったのか、

それとも、ただの錯覚だったのか。


女は今夜も、どこかで立っているかもしれない。

あるいは、もう立っていないかもしれない。


答えはない。

だが、男は知っている。


あの夜、自分は確かに、

誰かと同じ温度で、同じ時間を生きていた。


それだけが、

今も静かに、彼を支えている。


ネットには、答えがいくらでもある。

だが、あの夜の温度だけは、

どこにも載っていなかった。

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夜の温度 おげんさん @sans_72

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