第4話 『0.5秒の遅延《ラグ》、あるいは致命的な接吻』
0.5秒。
それは人間が知覚できる最小単位の「違和感」であり、俺たちの計画における致命的な
会場の喧騒が消えたように錯覚する。
俺の指令『肯定しろ』という電気信号が空間を飛び、御子柴の受信機に届く。御子柴の脳がそれを認識し、声帯を震わせる準備をする。
そのわずかな時間。
御子柴の口は半開きになり、焦点の合わない目で
処理落ちしたコンピューターのように。
そして――
「……ああ、そうだ。僕の言葉だ」
御子柴が答えた。
音質は明瞭。文法も正しい。俺の指示通りのトーン。
だがその言葉が発せられたタイミングは、有栖川セナの問いかけから決定的にズレていた。
会話のリズムという名の「呼吸」がそこで窒息していた。
セナの表情から迷いや感動といった曖昧な色が消え失せた。
残ったのは
「……遅い」
彼女は短く呟いた。
それは死刑判決よりも重い拒絶の響きだった。
俺は放送室で頭を抱えた。
終わった。物理法則(ラグ)に負けた。
彼女は気づいた。目の前の男が自分の意志で喋っていないことに。外部からの入力待ち(バッファリング)をしていたことに。
「さよなら、操り人形さん」
セナは興味を失ったように踵を返そうとする。
思考しろ。まだ挽回できるか?御子柴に泣きつかせるか?それとも逆ギレさせるか?
いや、どの
『……クソッ!』
俺が回線を切断しようとしたその時だった。
「……待って」
セナの足が止まった。
彼女は再び御子柴に向き直り、目を細めた。
何かを見つけた目だ。
彼女の視線が御子柴の耳元――髪の隙間にわずかに覗く黒い異物に釘付けになっていた。
「……ああ。そういうこと」
セナの唇が三日月のように吊り上がった。
その美しい笑みに俺の背筋が総毛立つ。
彼女はゆっくりと御子柴に歩み寄った。
一歩、二歩。
その距離は他人行儀な会話の距離(パーソナル・スペース)を軽々と超えた。
御子柴が驚いて後ずさろうとするが彼女は逃がさない。
「う、有栖川……さん?」
彼女は御子柴の胸に手を置き顔を近づけた。
吐息がかかるほどの距離。周囲の生徒たちが「キスか!?」と色めき立つ。
違う。俺にはわかる。
あれは求愛の距離じゃない。獲物の喉笛を喰いちぎる捕食者の距離だ。
『逃げろ!御子柴!それを取られるな!』
俺の絶叫は歓声にかき消された。
セナの白魚のような指が御子柴の頬を撫で上げ――そのまま耳の裏へと滑り込む。
「見つけた」
ブチッ。
肉を裂くような錯覚。
彼女は躊躇なくそのイヤホンを引き抜いた。
「あ……」
回線(イト)を切られた御子柴はただパクパクと口を動かすだけの肉塊になり、その場にへたり込んだ。
会場が静まり返る。
何が起きたのか誰も理解できていない。
理解しているのは世界で二人だけ。
有栖川セナは奪い取ったばかりの温かいイヤホンを自分の耳元に運んだ。
モニター越しに彼女の視線が俺を射抜く。
壁も距離も関係ない。
彼女は俺を見ている。
そして彼女はその黒い粒を、自らの左耳に深くねじ込んだ。
通信が
ノイズが走る。
呼吸音が聞こえる。御子柴のものではない。もっと繊細で、しかし確かな意志を持った呼吸。
『……っ』
俺は息を呑んだ。
ヘッドセットから聞こえる音が、あまりに生々しかったからだ。まるで彼女がこの放送室の隣に立っているかのような錯覚。
「――もしもし?」
脳髄に直接彼女の声が注ぎ込まれる。
甘く危険で、冷ややかな声。
「聞こえてるわよね?名無しのゴーストさん」
俺は震える手でマイクを握りしめた。
完全敗北だ。策も技術もすべて見破られた。
だが、なぜだろう。
恐怖よりも先に異常なほどの「充足感」が、枯渇していたはずの心を震わせていた。
「いい声ね。こんな空っぽな人形に使わせるには、勿体ないくらいの
彼女は会場の中心で虚空に向かって艶然と微笑んだ。
「さあ、隠れてないで出てらっしゃい。……その性根、私が叩き直してあげる」
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