第2話 『氷の女王のための、孤独なアルゴリズム』
十二月二十四日。作戦決行の六時間前。
俺は図書室の片隅、閲覧者の最も少ない地学コーナーの裏で作業をしていた。
机の脇に積み上げられているのは、有栖川セナに関する膨大な
それらの山の前で俺は白紙のレポート用紙を広げている。
「……酷いな。これじゃ産業廃棄物だ」
リストを見ながら俺は独り言ちた。
『君の瞳に乾杯』『一生守ります』『君を世界で一番幸せにする』
どいつもこいつも、市販のJ‐POPから歌詞をコピペしたような言葉ばかりだ。これでは彼女のフィルターを通過できるはずがない。
有栖川セナは大企業の令嬢として生まれ、幼い頃から「大人たちの社交辞令(嘘)」の中で育ってきた。
彼女にとって「好き」という言葉は、契約書に判を押させるためのまき餌に過ぎない。だから彼女は相手の声のトーン、表情筋の微細な動き、そして言葉選びのセンスから瞬時にその裏にある「下心」を演算する。
彼女を落とすために必要なのは情熱ではない。「理解」だ。
それも、凡庸な共感ではない。
世界そのものを拒絶している彼女の心の壁を、内側から溶かすような致命的な
俺はペンを回しながら目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、三日前の放課後の光景だ。
*
その日、雪交じりの雨が降っていた。
俺は雨宿りのために図書室に寄り、書架の隙間から彼女を見かけた。
有栖川セナは窓際で一冊の古い詩集を開いていた。
彼女の周りにはいつものように目に見えない結界が張られていた。誰も彼女に話しかけない。彼女も誰にも視線を向けない。
その横顔を見て、俺の心臓は不快な音を立てた。
彼女は本を読んでいない。
活字を目で追っているふりをして、ガラスに映る自分自身の姿――灰色の空と、雨に打たれる校庭と、その中に一人きりで閉じ込められている自分をじっと見つめていた。
その瞳は泣いているように見えた。
涙は流していない。表情すら動かしていない。だが、その魂が悲鳴を上げているのが俺には痛いほどわかった。
『……私はここにいる。誰か、私を見つけて』
そう聞こえた気がした。
それは幻聴ではない。俺自身がいつも心の奥底で叫んでいる言葉だったからだ。
他人を操り、見下すことでしか自我を保てない俺。
他人を拒絶し、孤立することでしか傷つかないでいられない彼女。
俺たちは鏡合わせだ。この
もし、言葉が届くとしたら。
王子様の甘い囁きではない。同じ檻の中にいる囚人からの、壁を叩く音(ノック)だけだ。
*
俺は目を開け、新しいレポート用紙を引き寄せた。
思考を切り替える。感情(センチメント)は邪魔だ。今はそれを論理的に再構築し、出力可能なデータに変換しなければならない。
「……
ペンを走らせる。
冒頭(導入)は、華やかなパーティー会場への否定から入る。
中盤は彼女の強がり――「氷の女王」というレッテルを剥がし、その下にある「震える少女」を肯定する。
そして結び(クロージング)は、「ここから連れ出す」という共犯の提案。
それはラブレターというよりウイルスコードに近い。
彼女の堅牢な
書き進めるうちに不思議な感覚に陥った。
これは御子柴に喋らせるための「嘘」の脚本だ。
なのに、書き連ねている言葉はすべて俺自身の本音だった。
『君が氷の女王なんじゃない。俺たちが、勝手に凍えていただけだ』
最後の一行を書き終えたときチャイムが鳴った。
俺はペンを置いた。指先が微かに震えている。
完成だ。
これ以上の
スマートフォンが震えた。御子柴からの催促のメッセージだ。
『準備完了だ。放送室へ向かう』
俺は短く返信し、レポート用紙を鞄にねじ込んだ。
外はすでに暗くなっていた。
窓の向こう、体育館の方角からは、吹奏楽部のチューニング音と生徒たちのざわめきが聞こえてくる。
クリスマスの宴が始まる。
嘘つきたちの仮面舞踏会。
「……始めようか、有栖川セナ」
俺は誰にともなく呟き、図書室を後にした。
俺と彼女の、最初で最後の通信実験が幕を開ける。
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