第二章 冷たい湖と、借金の始まり

刺すような寒さと、激しい咳が喉を引き裂いた。

それは僕を、深淵の底から無理やり引き戻す痛みだった。


思わず目を見開き、冷たく湿った空気を大きく吸い込む。

肺が焼けるように痛い。


仰向けに、冷たくざらついたコンクリートの上に横たわっていた。

全身はずぶ濡れで、水から引き上げられたぼろ切れのようだ。


髪から滴る水が、ぽたぽたと落ち、視界を滲ませる。


「げほっ……ごほごほっ!

 さ、寒……凍え死ぬ……!」


すぐそばで、荒い息を伴う女の声がした。

寒さと水を飲んだせいで少し掠れているが、その奥にある凛とした冷たさは失われていない。


必死に首を動かす。


そこには、雪のように白い影が、すぐ隣に膝をついて座っていた。


彼女も全身ずぶ濡れで、長い髪が青白い頬に張りついている。

水滴が絶えず落ち、彼女は咳き込みながら、濡れた前髪を払おうとしていた。

だが、その動きはどこか不器用で、苛立っているようにも見えた。


「おい。目、覚めたか?」


息を整えた彼女は、ぎろりと僕を睨みつける。

九死に一生を得た直後の、少し掠れた声だった。


「次に死にたくなったら、場所考えろよ。

 こんな凍える天気に、底が見えない湖とか正気か?」


一瞬、言葉が止まる。


「……引き上げるの、どれだけ大変だったと思ってるんだ」


口を開こうとしたが、喉は紙やすりで擦られたように痛み、

かすれた息しか漏れなかった。


——彼女は、誰だ?

——なぜ、飛び込んでまで、僕を?


その視線に気づいたのか、彼女は小さく鼻を鳴らした。


「そんな目で見るなよ。

 美人の水浴びってわけじゃないんだから」


そう言って、濡れて重くなったコートの裾を絞る。


「……まあ、バカな自殺志願者に巻き込まれただけだけどな」


裾を絞る手が、ふと止まった。


次の瞬間、彼女の目が鋭くなる。


「ちょっと待て。

 大事なのは、こっちだ」


彼女は、僕を指差した。

正確には——僕の下に敷かれ、泥まみれになった彼女のコートを。


「見ろよ。これ、私のお気に入りのトレンチコートだぞ?」


濡れて、汚れて、湖水の匂いを纏ったそれを指しながら、続ける。


「湖水に浸かって、泥までついて……

 クリーニング代と精神的損害、合わせて一万円」


彼女は、きっぱりと言い切った。


「払ってくれるよな?」


「……す、すみません……」


その言葉に、彼女は肩を落とした。

まるで空気の抜けた風船みたいに。


「ちっ……」


顔についた水滴を乱暴に拭い、ため息をつく。


「その様子じゃ、ポケットの中も顔より綺麗そうだな。

 ……まあいいや」


彼女は手を振った。


「どうせ二年も着てるし、古い。

 特別に初対面割引だ」


一拍置いて、宣言する。


「六千円でいい。ツケな」


そう言うと、どこからともなく小さなノートとペンを取り出し、

さらさらと書き始めた。


「……ツケ?」


ようやく声を取り戻し、掠れた声で尋ねる。


「当たり前だろ。私は損する商売はしない」


彼女は顔も上げず、ペンを走らせる。


「命を一つ拾って、

 コートの洗濯代と精神的苦痛込みで六千円」


少しだけ顔を上げ、こちらを見る。


「破格だぞ?

 感謝しろよ、債務者」


そして付け足すように、


「……名前は?」


「ゆ……夕城、輝海です」


「夕城輝海……」


低く繰り返し、頷く。


> 債務者:夕城輝海

初期債務:六千円




書き終えると、彼女は満足そうにノートを閉じた。

疲れの滲んだ、小さな笑みが浮かぶ。


「債務関係成立。

 輝海くん、よろしく……じゃなくて」


少し間を置いて、


「ちゃんと返済しろよ?」


月明かりの下、

彼女の耳の後ろに張りついた濡れ髪の奥に、

淡い桃色の古い傷跡が見えた。


裾を絞る指の関節は、異様なほど白い。

どこか、透明感すら感じられる。


そして——左膝の下。


黒いオーバーニーソックスが裂け、血が滲んでいた。

泥水と混ざった赤が、青白い肌にくっきりと浮かぶ。


その血筋は、月光の下で、

ほんのわずかに——きらめいて見えた。


彼女の視線は計算高い。

けれど、その奥には、気づかれないほどの優しさが潜んでいる。


それは、

母が最期の夜、痛みに震えながらも僕に向けてくれた笑顔と、

どこか重なっていた。


視線が、どうしてもその傷から離れない。

胸の奥に、理由のわからない後悔と心配が広がる。


少女は小さく笑った。


「難しいこと考えるな」


そう言って、手を差し出す。


「とりあえず、暖まれる場所探そう」


その手は湖水の冷たさを残していた。

それでも、不思議と安心できた。


僕はためらいながら、その手を握る。

指先に、かすかな温もりを感じる。


彼女は力強く引き、

僕はよろめきながら立ち上がった。


濡れた服が肌に張り付き、寒さが骨まで染みる。

それでも彼女は迷わず、近くのコンビニへと歩き出した。


夜の中で、二人の影が重なり合う。

まるで、暗闇に引かれた一本の光の線のように。


——この出会いが、

僕の人生で最も忘れられない一頁になることを、

そのときの僕は、まだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

値段のない帳簿と、星河に残るきみ @tsukino_rinka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画