第一章 夜の湖、運命の一歩

夜は、墨をたっぷり吸い込んだ分厚いビロードのように、重くのしかかってきた。

息をするだけで、胸が詰まりそうだった。


錆びつき、きしむ安アパートの鉄の扉を押し開けると、

鼻を刺す、嫌というほど馴染んだ臭いが一気に押し寄せてきた。


カビと埃、そして決して消えることのない安物の消毒液の匂い。

冷たく、絶望的で、毒蛇のように絡みつき、肺の奥へと這い入ってくる。

息をするたび、口の中に鉄錆の味が広がった。


部屋は棺桶のように狭かった。

隅には空になった薬の箱が積み上げられている。

まるで、母のために築かれた小さな墓標のように、無言でそこにあった。


そのそばには、病院や大家からの督促状が散らばっている。

何度も丸め、また広げた紙の端は刃物のように鋭く、

触れるたびに現実の冷たさと残酷さを突きつけてきた。


僕は無表情のまま、目に突き刺さる数字を眺め、

胃の奥がひっくり返るような感覚を覚えた。


記憶は制御を失った洪水のように、堰を切って押し寄せてくる。

鋭い氷の破片を伴いながら。


母の最期の姿が、はっきりと脳裏に浮かび上がった。

病に蝕まれ、骨と皮だけになったその顔は、

一度くしゃくしゃに丸められてから広げた紙のように、青白かった。


それでも、僕を見るたびに、

彼女は必死に、苦しそうに口元を引きつらせ、

泣き顔よりも痛々しい笑みを作ろうとした。


その、かすかで、ほとんど見えない光のためなら、

僕は自分のすべてを注ぎ込んだ。


放課のチャイムが鳴ると同時に、

僕は食堂の山積みになった食器のもとへ駆け出した。

冷たく刺す水に手を浸し、指はふやけて白く膨らんだ。


重い荷物は腰が折れそうになるほどだった。

切り詰めて貯めた金はすべて、

高価な錠剤や冷たい注射へと姿を変え、

母の、日ごとに枯れていく身体へ注ぎ込まれていった。


僕は「希望」という名の、とっくに朽ち果てた細い縄を、必死に握りしめていた。

不治の病という泥沼の中で、歯を食いしばり、もがき続けていた。


汗も、卑屈な懇願も、

深夜に一人で飲み込んだ悔しさと涙も、

きっと奇跡の一片と引き換えになるはずだと、信じたかった。


しかし、運命はそのささやかな願いさえも渋った。


母は逝った。

冷たく刺すような夜、

僕が彼女の痩せた手を強く握りしめ、

「大丈夫、きっとよくなる」と、何度も無意味に繰り返している、その最中に。


彼女の掌の温もりが、引き潮のように、少しずつ失われ、

ついには冷たく、硬くなっていくのを、

僕ははっきりと感じ取ってしまった。


僕のために灯り、支えてくれていた光は、

その瞬間、完全に消えた。


世界はすべての音と色を失い、

果てしなく広がる灰色と静寂だけが残った。

巨大な虚無が、僕を飲み込んだ。


父は来ては去った。

残すのは金の入った封筒と、

乾いて温もりのない「自分を大事にしろ」という言葉だけ。


後悔も、疲労も、視線を逸らす癖も、そこにはあった。

ただ、僕が渇望していた父としての温もりだけが、なかった。


その日から、この狭い部屋が僕の全世界になった。

同時に、逃げ場のない檻でもあった。


息をするたび、

記憶のガラス片を飲み込んでいるような気がした。


生きることは、意味のない惰性へと変わった。


未来が見えなかった。

母のいない世界で待つのは、

終わりのない灰色と冷たい借金、

そして憐れみの視線だけだと思えた。


どうしてこの橋に辿り着いたのか、自分でもわからない。


冷たい風が、氷片を含んだ鞭のように頬を打つ。

橋の下には、街灯に照らされた湖面が、

廃油のように鈍く光りながら広がっていた。


それは巨大で、優しく、誘惑的な墓穴のようだった。

音もなく、僕のすべての苦しみを呼び寄せていた。


――飛び降りろ。


たった一歩踏み出せばいい。

この空っぽの身体を、重力が連れ去ってくれる。

冷たい湖水が抱きしめ、

永遠の静寂を与えてくれるだろう。


それはもはや死ではなかった。

解放だった。


涙が、予告もなく溢れた。

熱く、すぐに凍るように冷たくなった。


しかし、そのか細い抵抗は、

骨の髄まで染み込んだ疲労の前では、

風前の灯だった。


僕は目を閉じ、重心を前へ移した。


「……もう、希望を失ったのか。少年よ」


冷たく、かすれた声が、

死んだような夜を切り裂いた。

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