アナザーライフ・僕の初恋の人

@RCOM

第1話 雨上がり、あの子に恋をした

 中学二年の始業式の朝


 新しい学年の教室の前で、僕は一度だけ深呼吸をした。


 長谷川遼、十四歳。

背が低い。

太っている。


運動も勉強も、何をやっても「普通」か、それ以下。

 

自己肯定感は、地面を掘れば出てくるレベル。


 友達はいる。


 同じオタク趣味の、ゲーム仲間の男子たち。


 放課後に駄菓子を買って、くだらないことで笑い合える、めっちゃいいゲーム仲間


 でも、だからこそ、よくわかっている。


僕なんて、モテるわけがない。


 これは卑屈じゃなくて、現実主義だ。


 恋愛イベントなんて、ゲームの中でしか起きない。


 ……本来なら、そう思っていた。




 一年前。


 僕が一年生で、クラスにも学校にも慣れきれていなかった頃の話だ。


 春の終わり。


少し暑いくらいの午後。


 一年生全員で、近くの神社に「写生会」に行った。


 白い画用紙。


組み立てづらいイーゼル。


 友達同士で固まって、わいわい騒ぎながら絵を描く生徒


 その輪から少し離れた木陰に、僕は一人で座っていた。


「……別に、一人の方が集中できるし」


 誰にも聞こえない言い訳をしながら、鉛筆を動かす。


 描いているのは、神社の鳥居。


 少し色あせた赤い柱と、その先に続く石段。


 上手いわけじゃない。


 でも、黙って手を動かす作業は嫌いじゃなかった。


 少なくとも、ぎこちなく雑談するよりは、だいぶマシだ。


 遠くで聞こえる笑い声を、耳の端っこで聞きながら、

 僕は一人、影の中で線を重ねていた。


 その時だった。


 ──ゴロッ。


 遠くで雷のような音がした。


 顔を上げると、さっきまで青かった空の半分が、いつの間にか暗い雲に覆われている。


「え、やば」「雨くるっぽい」


 誰かの声がした数秒後。


 世界が、一瞬で白くなった。


 バシャァァァァァッ!


 耳をつんざく水音と同時に、土砂降りの雨。


 傘なんて、誰も持っていない。


「ちょ、やっば!」「スケッチブックがぁぁ!」「キャー!」


 あちこちで悲鳴が上がる。


「みんな、神社の屋根の下に急げーっ!」


 先生の声が響き、生徒たちが画材を抱えて走り出す。


 僕も慌てて立ち上がったけれど──足はすぐに重くなり、息が切れる。


 最後尾をふらふら走って、どうにか神社の大きな屋根の下に滑り込んだ時には、

 制服の袖もズボンも、ぐっしょり濡れていた。


「……最悪だ」


 しゃがみ込んで画用紙を見ると、あちこちに水のシミが広がっている。


 さっきまで描いていた鳥居の線が、滲んでぐちゃぐちゃだ。


 周りでは友達同士が、「髪やばい!」


「スマホ死んだ!」と騒いでいる。


 その輪の少し外側で、僕は一人、ため息をついた。


 ふと、雨音が少しだけ弱くなった。


 見上げると、厚い雲の切れ間から、細い光が差し込んでいる。


 お天気雨。


 まだ激しい雨の向こう側で、

 太陽が顔を出し始めていた。


 屋根から落ちる雫が、光を受けてきらきら光る。

 石畳の水たまりには、空の色と、揺れる木々が映り込んでいた。


「……綺麗」


 思わず、しゃがんだまま、首をぐっと伸ばして外を見た。


 その時だ。


 視界の端に、誰かの足が映った。


 白いスニーカー。


 すらっと伸びた足。


 制服のスカートの裾から、濡れた膝まで続くライン。


 ゆっくり視線を上げていく。


 濡れたスカート。

 細い腰。

 そこからさらに上


 横顔。


 屋根のぎりぎりのところ。


 雨と光の境界線のすぐ手前に、その子は立っていた。


 長い髪が、雨でしっとりと張り付いている。


 頬や首筋に、小さな水滴が光っている。


 その横顔は、まっすぐ空を見上げていた。


 何かを探しているみたいに。


 何かを確かめているみたいに。


 彼女の視線の先に、小さな虹がかかっていた。

 薄くて、今にも消えそうな、頼りない虹。


 彼女は、その虹を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その一瞬を、光が縁取る。


 僕は、息をするのを忘れて見上げていた。


 胸が、ドクン、と鳴る。


(……え?)


 今までだって、可愛いと思う子はいた。


 アイドルとか、クラスの人気者とか、ゲームのキャラとか。


 でも、目の前にいるこの子はそれとは違った。


 「可愛い」とか「綺麗」とか、そういう言葉の外側にいる感じ。


 目が離せない。


 その瞬間、手から鉛筆が滑り落ちた。


 カラン、と音を立てて転がり、画用紙の上に雨粒がぽたりと落ちる。


「あ……」


 じわりと広がる水のシミ。


 絵はさらに滲んでいくのに、僕はそれを見ている余裕もなかった。


 もう一度顔を上げた時には


 そこに、彼女の姿はなかった。


 どこへ行ったのかもわからない。


 何組の子なのかも知らない。


 でも、さっき見た横顔だけは、焼きついたみたいに頭から消えなかった。


 先生の「教室戻るぞー!」という声が響く。


 僕は、滲んだ鳥居の絵を見下ろしながら、

 胸の奥に残った妙な熱の正体がわからないまま、その場を後にした。


 今振り返れば、あれがきっと、


 僕の人生初の一目惚れだった。

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