ep.4 孤独な天才

 寮に戻ってからも、ヴィーの指先は小さく震えていた。

レイやアトラの心配の声に「大丈夫だよ」と笑い返すたび、笑い方だけが上手くなっていく。レイはそれを見て、心が痛んだ。


 月例演習の報告は、なぜか早かった。

寮の談話室で、七人の寮生と教師が振り返りをする。


「難易度の設定に手違いがあったようだ。怪我人が出なくてよかった」


教師はそう言って、細部に踏み込まれる前に話を切り上げた。


 レイの胸に、早くも小さな不安が芽生えていた。今後も、こんなことがあるのだろうか。

不安を追い払うように、レイは大きく息を吸い、頭を振った。

ギルバートがついている。あのときの彼――少し怖かったのも、確かだ。

それでも、彼がいてくれるなら、きっと大丈夫だ。

せっかくの学園生活なんだから、心配事ばかりではもったいないよね。



◇◆◇


 「あの魔獣を送り込んだのは、わざとですね」


ギルバートは、教師の部屋にいた。

教師――カルダは手元の書類に視線を落としたまま、淡々と問い返す。


「だとしたら、何だ?」

「やりすぎでは」


ギルバートは静かに答えた。


「怪我人は出なかった。それがすべてだ」

「また利用するつもりですか」


カルダは初めて視線を上げる。その苛立たしげな眼差しを受けても、ギルバートは表情を動かさなかった。


「人聞きの悪いことを言うな。利用じゃない、保護だ」


カルダは手元で遊ばせていた書類を机に叩きつける。


「あの子を狙う者たちがいる。お前は役目を果たせ」

「わかっています。貴方たちこそ、俺の足を引っ張らないでください」


ギルバートはカルダの目を正面から見据える。

カルダがその目を睨み返した。


「いつからそんな生意気な口を利けるようになった?」


ギルバートはそれ以上何も言わず、踵を返した。

扉の閉まる音だけが耳に残った。


◇◆◇


 集中を欠いた彼の魔法は敵を大きく外れ、奥の木に風穴を開けた。


ギルバートは、研究施設の跡地で見つかった残留魔力の調査を命じられていた。

そして今、その地に巣食う魔獣たち――人の頭ほどの大きさはあろうかという蜂の魔物に囲まれている。

周囲には羽音が満ち、一匹ずつ撃ち落としてもキリがない。


落ち着け。


ギルバートは自分に言い聞かせた。苛立ちは、魔力を余計に不安定にさせるだけだ。


向かってきた蜂を振り払おうとした瞬間、その腕に噛みつかれた。鋭い牙が肉を抉り、鈍い痛みが遅れてくる。

ギルバートは咄嗟に魔力を腕へと走らせ、食らいついた蜂を焼き尽くした。


視界にいる虫を、一気に焼き払うか?


残留魔力を導火線にすれば、広範囲に高威力の火を放つことも難しくはない。

だが、予想外に燃え広がる可能性がある。それに、何より目立ちすぎる。


 結局、彼は制御の利く自らの魔力で敵を焼き払うことを選んだ。

黒く焦げた虫の死骸が地面に落ちる。その直後、膝が抜けるような感覚に襲われた。

魔力を使いすぎたのだ。

彼は片膝をついて息を整えると、再び静かに立ち上がった。


 施設を歩くうち、噛まれた右腕から血が滴っていることに気が付いた。

小さく舌打ちをし、傷に視線を落とす。制服の袖は刃物で切り裂かれたように破れ、その下の肌には、くっきりと歯形が残っていた。

ギルバートは短い呪文を唱え、皮膚の表面を繋ぎ合わせるようにして血を止める。あとは、放っておけば治る。


 彼は、一般的な魔導士よりも傷の治りが早かった。普通なら治癒に十日かかる傷も、彼なら半日から一日もあれば塞がる。有り余る魔力が、それを可能にしていた。


 調査を終えたギルバートは、木陰に畳んで置いていた外套を拾い上げ、帰路についた。


◇◆◇


 「なんて言ってるの?」

「向こうの木に花が咲いてるから見に行きたいって」


レイとヴィーは、植物学の教師に頼まれ、温室で魔獣の世話を手伝っていた。

ヴィーは小さな魔獣――植物型魔獣の鉢植えを抱きかかえて歩き出す。

二人は、温室の奥にある木を見上げた。葉陰に、薄紫色の大きな花が一輪だけ咲いている。


「あれのこと?」

「そうみたい。綺麗だね」


ヴィーが笑った。

その心からの笑みを、レイは久しぶりに見た気がした。胸の奥にじんわりと安堵が広がり、思わず相好が崩れる。

そのとき、通路の向こうから教師が顔を覗かせた。


「こんなところにも咲いてたのか。君たちが見つけたのかい?」

「この子が教えてくれたんです」


ヴィーが鉢植えの魔獣を差し出す。

木の魔獣は、細い枝につけた葉をさわさわと揺らしていた。レイには、その声は聞こえない。


「驚いたな。君、本当に魔獣の言葉がわかるんだね」


ヴィーは少しだけ複雑な表情を浮かべ、小さく頷いた。


 二人が手伝いを終えた直後、温室の出入り口から見える外廊下を、偶然ギルバートが通りかかった。ずっとそちらを見ていたわけではないのに、レイの視線は自然と彼の方へ向いていた。


「ギルバート先輩!」


レイが呼びかけると、彼ははっと顔を上げ、いつものあの柔らかな笑みを浮かべた。だが、二人の背後で見守っていた教師に気づいた瞬間、その表情がわずかに引き締まった。

彼は進路を変え、二人のもとへ歩いてくる。


「先生の手伝いをしてたんです」


ギルバートは「そう」とレイに相槌を打つと、すぐに教師へと視線を移した。


「新しい先生ですか? 初めてお会いする顔だ」

「ああ。この春から赴任してきたんだ。勝手がわからなくてね。彼らに手伝いをお願いしていたんだよ」


ギルバートはヴィーを一瞥する。


「実はこの二人も、最近編入してきたばかりなんです。温室の管理なら、担当の生徒がいるはずだ。そちらに頼んだほうがいいかもしれませんね」


一瞬の間。


「……あの、僕、手伝いたいです」


ヴィーが、控えめに二人を見上げた。

ギルバートの目が、わずかに見開かれる。


「私も一緒に手伝います。学園とか、魔法に慣れるにもちょうどいいかなって」


レイはさりげなくヴィーを見た。ヴィーは気づいていないようだったけれど、ギルバートは小さく息を吐き、「そうだな」と笑った。

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2025年12月25日 18:00
2025年12月26日 17:00
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