ep.3 春の嵐

 月例演習から遡ること一月前。

ギルバートは、いつもと変わらず森の入り口のベンチで本を読んでいた。例によって、午後の実技はサボりだ。彼が出ても場をひっかきまわすだけなので、サボっても咎める教師はいなかった。


 久しぶりに一人になれたこの場所で、ギルバートはそっと目を閉じる。

柔らかな日差しと、木々のざわめきが心地よい。体の内側に渦巻く魔力の奔流が、少しずつ鎮まっていく。その感覚に、思考がほどけていった。


そのとき、ふと、最近変わったことが脳裏をよぎる。

僻地での任務を日常としてきた彼にとって、穏やかな学園生活はそもそも縁遠い世界だった。そこへ突然現れた彼女は、なおのこと異物だった。


「先輩」


――来た。


上から降ってきた控えめな声に、ギルバートは顔を上げる。


彼が唯一落ち着けるこの場所に、いつのまにか馴染んでしまったこの少女――コンスタンシア。


栗毛を高い位置でひとつに結んだ、幼い顔立ちの少女が、教本とノートを胸に抱えて立っていた。

ギルバートは、「来るな」とも「座れ」とも言わなかった。ただ口元に薄い笑みを浮かべて、彼女が動くのを待った。


「……今日も、いいですか?」


ギルバートは小さく頷き、流れるように「いいよ」と答える。

見つかってしまって、頼まれたから応えるだけ。拒まないが、懐かれないように。角が立てば騒がれるし、かといって深入りされても困る。

ただ、この空間の静けさを――それだけは守りたかった。


◇◆◇


 「ここは、こう覚えて。式の形から判別できる」


彼は教本の公式を指さしながら言った。

二人の“古語構文試験対策講座”が始まったのは、数日前だった。

コンスタンシアが秘密の場所として通っていた森のベンチに、ある日、本を読む高等部の少年が座っていた。互いに干渉しない静かな関係だったけれど、中等部の試験前、彼の読んでいた本を思い出し、彼女が意を決して声をかけたのだ。


「早かったかな?」


コンスタンシアのペンが止まっていると、彼が口を開いた。穏やかではあるけれど、どこか冷たく硬い響き。顔を上げると、彼の口元は確かに笑っているのに、目は笑っていなかった。

コンスタンシアは、初めて出会ったとき息を呑んだ、あの若葉よりも明るい翠色の瞳を思い返していた。


「うん……ごめんなさい」


思わず小さな声で謝った。

それが聞こえたからか、彼の肩がかすかに揺れた気がした。そして彼は目を細め、さらに柔らかな表情をつくって――けれど、口元に浮かんだ笑みにはやはり温度がなかった。


「続けようか」


 日が暮れるまで、二人の“対策講座”は続いた。コンスタンシアの中に残った違和感は消えないまま。彼の教え方は丁寧で、コンスタンシアが手を止めれば、わからないと言うまでもなく、補足を加えてくれた。

ただ、それは、彼女に「わからない」と言わせないような、先回りしすぎたやり方にも思えた。


「どうかした?」


翡翠のような瞳が、彼女の思考を探るように、静かにこちらを覗き込んでくる。

コンスタンシアは少し口ごもった。


「あなたは何を考えているの?」


そう問いかけたかった。けれど、口にしたのは、別の言葉だった。


「ううん。先生よりもわかりやすいなって」


その一瞬、彼の瞳と、視界の端に映った指先が揺らいだ気がした。

彼は短く沈黙して、ようやく言葉を返す。


「そうか。……よかった。今日はここまでにしよう」


彼が教本とノートを閉じる仕草を、コンスタンシアはぼんやりと眺めていた。立ち上がろうとする気配に、遅れて声をかける。


「わたし、コンスタンシアっていうの」


その言葉に、彼の動きがぴたりと止まる。思わず固唾を飲み、彼の返事を待つ。


「……ギルバートだ」


小さく目を伏せて、彼は答えた。コンスタンシアは頷く。少し迷って、口を開いた。


「今日は……ありがとう」


礼を言わないのはよくないと思ったから。それだけだった。

けれど、彼が何も言わずにこちらを見つめるあいだ、胸が痛いほど静かだった。「また明日」と言おうか、ほんの一瞬迷って――やめた。距離を近づけるのが、今はまだ怖かった。

彼はじっとコンスタンシアを見つめ、そして小さく頷くと、背を向けて森の奥へと歩き去っていった。

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