1-3 音の輪郭
事務所に戻ると、外よりも音が少なく感じられた。ドアを閉めた瞬間、街のざわめきが薄い膜の向こうに退く。
澪は、ソファの端に浅く腰を下ろした。バッグを膝の上に置き、両手で押さえている。さっきまで外にあった緊張が、まだ肩に残っている。
「さっきの録音、もう一度聞かせてください」
僕がそう言うと、澪は頷き、スマートフォンを差し出した。画面をこちらに向ける前に、一瞬だけ親指が止まる。
覚悟の一拍。そして、再生。
ざわめき。電車のブレーキ音。アナウンスが、少し遅れて反響する。
音は、夜の駅前よりも平坦だ。空気が映らない分、細部が浮き出る。
僕は、椅子に深く腰掛けない。背もたれに寄りかからず、少し前のめりになる。
澪は、それを見て、無意識に背筋を伸ばした。
高い声が入る。
「だから、違うって言ってるだろ!」
語尾が上がる。音量は大きいが、怒りきれていない。
低い声。
「……触られた。」
短い。切るように終わる。
僕は、再生を止めず、机の上のペンを一本取った。キャップを外さず、そのまま指先で転がす。
カタカタ、という小さな音。
澪の視線が、一瞬だけペンに落ちた。
低い声が、少しだけ早口になる。
「触ってないって言ってるだろ」
一拍、間が生まれる。
僕はペンを止め、自分から発する音を消す。
高い声が、元の速度に戻る。
澪は、何も言わない。けれど、目がわずかに見開かれている。
「……今の」
彼女が、ためらいがちに口を開く。
「何か、変わりました?」
「……ええ」
それ以上は言わない。
音は、単独では意味を持たない。他の音と並んだとき、初めて輪郭が出る。
再生を進める。
「やめなさい。」
三つ目の声。軽い。責任を引き受けない位置から投げられた声。
僕は、椅子から立ち上がり、ソファと机の間に立つ。澪の正面ではない。少し斜め。
さっき駅前で見せた位置。何も言わず、そのまま立つ。
「おい!」
「ねぇ、…」
澪の肩が、わずかに強張る。
「……今、」
彼女は言いかけて、口を閉じた。
「大丈夫です」
そう言って、僕は一歩下がる。元の距離に戻る。
彼女の呼吸が、少しだけ整う。
「録音の中でも、同じことが起きています」
澪は、小さく頷いた。
「……声が、重なった?」
「ええ」
重なった、というより――挟まれた。
そのとき、ドアベルが鳴った。短く、雑な音。
断りもなくドアが開く。
スーツの上着を肩に掛けた男が、部屋を一瞥してから、僕を見る。
伊達刑事だった。
「邪魔してるか?」
「仕事中です」
「見りゃ分かる」
伊達は澪を見て、軽く顎を引いた。
「あんたは、確か……。なるほど、依頼か?」
「はい」
「……駅前の件か」
澪が息を呑むのが分かった。
伊達は、それ以上追及しない。代わりに、部屋の中を見回した。
机。椅子。僕の立ち位置。
「相変わらずだな」
「何がですか」
「説明しねえところ」
伊達は鼻で笑った。
「こいつの仕事はな」
澪の方を見て、言う。
「再現屋って呼んでるが、正確には――」
一拍。
「プロファイリングに近い」
澪が、驚いたように伊達を見る。
「性格を見るんじゃない。心理分析でもない」
伊達は、指で床を指した。
「行動の並びを見てる」
「並び……」
「癖、距離、反応の速さ。それを並べ直して、“そうなる流れ”を作る」
伊達は僕を見た。
「だから厄介なんだ。証拠にならねえのに、外れることも少ねえ」
僕は肩をすくめる。
「なぞっているだけです」
伊達は、ふん、と鼻を鳴らした。
「それが一番、信用ならねえ」
そう言って、ドアに向かう。
「澪さん」
不意に、名前を呼ばれて、彼女は背筋を伸ばした。
「この案件は、まだ事件にはならねえ。……だが、話はもう一回聞く」
責める口調ではない。事務的な確認。
澪は、静かに頷いた。
伊達が出ていくと、事務所はまた静かになった。
「……怖く、ないんですね」
澪が、ぽつりと言った。
「何がですか」
「刑事さん」
「慣れているだけです」
慣れ、という言葉が、どこまでを指すかは言わない。
「今日は、ここまでにしましょう」
僕は、スマートフォンを返した。
「次は、それぞれの話を、もう少し細かく聞きます」
「……答えは?」
「まだです」
首を振る。
「今日は、音の輪郭が見えただけです」
澪は、少し考えてから、小さく笑った。
それでいい。
Human Tracerは、安心させる仕事でもない。
見えなかったものを、見える場所に置く。それだけだ。
ドアが閉まり、再び静けさが戻る。
机の上のペンを、元の位置に戻す。
音は、もう鳴らない。
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