1-2 夜の駅前
夜の駅前は、音が前に出る。
昼間は人の流れに紛れていた細かな音が、夜になると一つずつ輪郭を持ち始める。
澪と並んで歩く。彼女の歩幅は小さく、一定だ。彼女は細かい気遣いができる人らしい。人に合わせる癖が、そのまま足に出ている。
「この辺りです」
彼女は、ロータリーの端を指した。コンビニの白い光と、街灯の影が交差する場所。
僕は立ち止まり、周囲を一度見回した。何気ない仕草に見えるよう、意識して。
「そのまま、立っていてください」
澪は言われた通り、動かなかった。肩に少しだけ力が入る。
僕は彼女の正面に立ち、ゆっくりと歩き出す。
一歩。二歩。
距離が縮まるにつれて、澪の視線がわずかに泳いだ。
三歩目で、彼女は無意識に体を引いた。
ほんの数センチ。けれど、はっきりと分かる動き。
「……すみません」
澪が目を伏せながら謝る。謝る必要のない場面で。緊張した人間の反応だ。
「今、どう感じましたか」
「……近い、です」
声が少しだけ高くなっている。
僕は、それ以上近づかず、立ち位置を変えた。今度は、澪の斜め前。
同じ距離。同じ歩幅。
今度は、彼女は下がらなかった。視線も、逸れない。
「……さっきと、違います」
「ええ」
それ以上は言わない。
澪は、自分の足元を見た。さっきと今で、立っている場所が違うことに気づく。
「二人は、このくらいの距離で立っていました」
彼女が示したのは、僕が最初に近づいた距離より、ほんの少しだけ近い位置。
僕は、何も言わず、その位置に立つ。そこから、一歩踏み出す。
声は出さない。ただ、距離だけを詰める。澪の肩が、びくりと跳ねた。
「……今、押されたって言われたら」
彼女は言葉を探しながら、口を開いた。
「……否定、できないかもしれません」
「触っていなくても?」
「はい」
そう言ってから、自分の言葉に驚いたように目を見開く。
「……あ」
その反応だけで、十分だった。僕は一歩下がり、元の距離に戻る。
「あなたは、止めようとして、この間に立った」
澪は、小さく頷いた。
「声も、ここに置いた」
僕は、二人の間に立つ位置を示す。声を出さず、指先だけで。
澪は、その位置に立った瞬間、自分の肩が少しだけ強張るのを感じたらしい。
「……挟まれてる感じ、します」
「ええ」
それが、夜の駅前で起きたことだ。
誰も、嘘はついていない。誰も、殴っていない。
それでも――押されたという言葉が出るだけの理由は、あった。
「私……」
澪は何か言いかけて、口を閉じた。
責任を引き受けようとする人間の表情。
「違います」
短く、否定する。
「あなたは、止めようとしただけです」
善悪を決めるのは、僕の仕事じゃない。
電車がホームに入ってくる音が、ロータリーに反響した。
澪は、ゆっくり息を吐いた。
「……さっきより、ちゃんと分かります」
「何がですか」
「どうして、言葉だけの説明じゃ足りなかったのか」
それでいい。
Human Tracerは、分からせる仕事じゃない。見えなかったものを、見える位置に置き直すだけだ。
「今日は、ここまでです」
「もう、終わりですか」
「まだ途中です」
そう言って、駅前を見回す。
夜の音は、変わらない。けれど、距離の意味だけが、少し違って見える。
「続きは、事務所で」
「はい」
澪は深く頭を下げ、夜の人波に戻っていった。
行きより、ほんの少しだけ、歩幅が大きい。
Human Tracerは、その変化も、ただ見送る。
なぞるのは、行動だけだ。理解は、本人に任せる。
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