1-4 高い声と低い声
翌日の昼過ぎ、事務所のドアベルが二回鳴った。
一回目は短く、迷いがない。二回目は、指が触れた瞬間に引っ込めたみたいに弱い。
同じベルでも、人が違うと音が違う。
先に入ってきたのは若い男だった。二十代前半。肩幅があって、靴が新しい。視線が落ち着かず、部屋を一周してから僕を見る。
「ここ……再現屋?」
声が高い。喉の奥で鳴る焦りが混ざっている。
「そう呼ぶ人もいます」
僕がそう返すと、男は言い返す暇も惜しいように息を吸った。
「俺、押してないから。触ってもないし、押してもない。なのに“押された”って言われて……最悪なんだけど。挙げ句の果てには誰かが通報して、警察まで来て。いったい何なんだよ。」
言葉が前に出る。体も前に出る。椅子に座る前から机に近づき、片手をテーブルに置いた。
指が、机の縁を叩く。トントン、と一定じゃない音。
「名前を」
「真田(さなだ)。真田 恒一。……いや、こういうのって意味ある? 名前」
「意味があります」
僕がそう言うと、真田は一瞬だけ口をつぐんだ。しかし次の瞬間、また言葉が溢れる。
「だってさ、俺は止めようとしただけで――」
そこへ二回目のベルが鳴った。弱い音。
ドアが開く。
入ってきたのは、真田より少し年上に見える男だった。三十前後。服の色が地味で、靴の踵が減っている。
部屋に入っても周囲を見ない。視線は床と、自分の足元に落ちたまま。
「……すみません」
声が低い。小さいのに、硬い。
「座ってください」
僕が言うと、男は真田を見なかった。見ないようにしている、という感じでもない。ただ、視線を上げない。
真田は立ったまま、男を指差す。
「ほら! こいつ! こいつが“押された”って――」
男の肩が、ほんのわずかに揺れた。逃げる方向へ。
僕は言葉を挟まない。ただ、椅子を一脚、少しだけずらした。机と椅子の距離を、数センチ広げる。
真田の視線が、その動きに引っかかった。「なんだそれ」と言いたげに眉が動く。でも、言葉は続く。
「俺は、触ってすらない。なのにさ――」
「……触ってない、って」
低い男が、小さく言った。声が机の上を滑るように落ちた。
真田が、ぐっと前に出た。椅子を蹴るような音がする。
「だから! 触ってないって言ってるだろ!」
低い男の呼吸が止まったのが、分かった。顔色が変わるほどではない。でも、肩が上がる。
ほんの数センチ。それだけで人は「迫られた」と感じる。
「――真田さん」
僕は初めて、真田の名前を呼んだ。
真田の動きが止まる。名前を呼ばれると、人は一拍だけ現実に戻る。
「座ってください」
真田は舌打ちしかけて、思い直したように椅子に腰を下ろした。座り方が浅い。いつでも立てる位置。
低い男は、深く座る。だが背筋は伸びない。
背中が壁に寄りかかる。自分の背後を守る座り方。
「あなたの名前は」
僕が低い男に聞くと、彼は少し遅れて口を開いた。
「……江口(えぐち)です。江口 恒仁」
ずいぶんと似た名前だ。偶然だが、こういう偶然は揉め事を余計に面倒にする。
真田が「は?」という顔をする。口を開きかけるが、僕はその前にペンを一本、机の中央に置いた。
カタン。
小さな音。二人の目が、その音に吸い寄せられる。
「順番に話します」
言い切ると、真田は肩をすくめ、江口はわずかに頷いた。
「真田さん。あなたは、何をしようとしていましたか」
「止めようとした。あいつが別のやつに絡まれてたっぽくて」
「止め方は」
「近づいて、声かけて。『大丈夫?』って」
真田は言いながら、無意識に体を前に出した。声をかけるときの距離を、体が覚えている。
江口の指先が、膝の上で握られる。爪が布を掴む。
「江口さん。あなたは、どう感じましたか」
江口はすぐに答えない。視線が床に落ちたまま、息を整える。
「……近い、って」
それだけ言うと、唇を結んだ。
真田が鼻で笑いそうになる。笑う一歩手前で、僕を見る。空気を読む力はある。でも、読み方が荒い。
「押された、という言葉は、どこで出ました?」
僕が問うと、江口の喉が鳴った。
「……俺が言いました。……押された、みたいに……感じたから」
真田が「みたいに?」と口を開きかける。僕は目線だけで止める。
江口は続けた。
「……触られた、っていうより」
「来られた、って」
その言葉が出た瞬間、真田の顔が止まった。彼は、自分が何をしたかを思い出そうとしている。“近づいた”という事実が、ようやく言葉になる直前の表情。
「……それで揉めた?」
僕が聞くと、真田は頷いた。
「そう。俺は触ってないって言った。そしたら、あいつが“押した”って」
江口は首を振った。否定の動作が小さい。でも確かだ。
「……押した、って言ってない。押された、って……言っただけ」
言い方の差。しかし、揉め事はそこでは終わらない。
僕は視線を二人の間に落とした。椅子と机の配置。互いの足先の向き。
「その場に、他の声はありましたか」
真田はすぐに答える。
「知らない。けっこう人、いたし」
江口は少し遅れて、言った。
「……女の人の声が。やめて、って」
澪の声だ。真田は眉を寄せる。
「女? そんなの覚えてないなぁ」
覚えていないのは、嘘じゃない。覚える余裕がなかっただけだ。
僕は、ペンを指先で転がした。音を立てないように、静かに。
「今日、分かったことは二つです」
二人が僕を見る。真田は前のめり。江口は引いたまま。
「真田さんは、止めるとき距離が近い。江口さんは、距離が詰まると“押された”と感じる」
「は? それ――」
真田が言いかけたが、僕は続ける。
「どちらも嘘はついていません。ただ、同じ出来事を違う言葉で持っています」
江口の肩から、少しだけ力が抜けた。
真田の口が、言い返す言葉を探している。
「まだ、足りません」
僕は言った。
「現場の位置。あなたたちの立ち位置。そして、第三の声が置かれた場所」
二人の表情が、少しだけ変わる。“自分たちだけの話ではない”という気配。
「もう一度、駅前に行きます。今度は二人で。その場で、動きをなぞります」
真田は一瞬戸惑い、すぐ頷いた。
江口は迷う。目線が床から離れない。でも、小さく頷いた。頷くまでに、二拍かかった。その二拍が、今日の収穫だ。
Human Tracerは、答えを出す前に、材料を集める。足りない情報がある限り、断定しない。
僕は笑って見せた。
「――なぞらえるだけです。その時のことを」
真田は「なんだそれ」と言いそうな顔をして、結局、何も言わなかった。
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