第六話:エプロン姿とハンバーグ。「あーん」は拒否権なしの強制イベントらしい

 地学準備室を出た俺たちは、そのまま帰路についた。

 西日が建物の影を長く伸ばし、アスファルトをオレンジ色に染め上げている。並んで歩く俺たちの影もまた、実際の身長よりもずっと長く伸び、時折重なり合いながら揺れていた。


 隣を歩く一ノ瀬アヤは、いつになく上機嫌だった。

 鼻歌交じりにスキップでもしそうな足取りで、時折くるりと振り返っては、俺の顔を覗き込んでくる。その瞳には、何か企んでいる時の輝きがあったが、まあ、それを防ぐ手立ては俺にはない。


「先輩、今日は寄り道禁止ですよ」


 駅前のコンビニに吸い込まれそうになった俺の袖を、アヤがくいくいと引っ張った。


「俺には、アイスの補給が必要なんだが」


「ダメです。今日は、まっすぐお家に帰りますよ」


「なんだ、俺は犬か何かか」


「違いますよ。先輩は犬なんかじゃありません!」


「ああ、そうかい。じゃあ、アイスくらい買わせてくれ」


「いや、ダメです! だって、これから、私の部屋でたくさん食べてもらわないといけないんですから!」


 彼女は当然のことのように言い放った。

 そして、アヤは制服のポケットから、見慣れたあの鍵――五〇三号室の鍵を取り出し、チャラリと鳴らしてみせた。


「ついに完成したんですよ、私の部屋」


「ああ、あのダンボール要塞のことか?」


「失礼ですね。もう要塞じゃありません。劇的ビフォーアフターを遂げた、優雅なる乙女の部屋です。今日はその『お披露目会』にご招待します」


 そういえば、昨日の夜は、隣からガタゴトと家具を動かすような音が聞こえていた。引越しの荷解きがようやく終わったということらしい。

 あの樹海のような惨状が、どこまで人間らしい住処に変わったのか。興味がないと言えば嘘になる。なにせ、壁一枚隔てた隣なのだから。


「ふうん。まあ、見学くらいならしてやるか」


「見学だけじゃありませんよ。今日はお祝いですから、ディナー付きなんです」


「ディナー? 出前でも取るのか?」


「違います。シェフのおすすめコース料理です。あ、シェフは私ですけど」


 彼女は自分の胸に手を当てて、ふんぞり返る。

 さっきの会話では「卵かけご飯が得意料理」と言っていた気がするが、本当に大丈夫なのだろうか。


「……はぁ」


「これも、先輩の胃袋を掴むための、第一歩なんですよ」


 胃袋を掴む。

 昭和のドラマのような古風なフレーズを、令和の女子高生が真顔で口にする。そのギャップがおかしくて、俺は口元を緩めそうになるのを堪えた。


「分かったよ。ご馳走になる」


「はい! 期待しててくださいね!」


 アヤは弾むような声で答え、俺の先を歩き出した。

 新興住宅地の整然とした街並みを、二人の足音が響いていく。

 彼女の背中を見ながら、俺はぼんやりと考えた。


 完全に毒されているな、と。



 マンションのエントランスを抜け、エレベーターで五階へ上がる。

 昨日から始まったこの動線も、早くも習慣になりつつある自分が怖い。

 俺の部屋である五〇二号室の前で、俺は足を止めた。


「一旦、荷物置いてくる。着替えたいし」


「あ、了解です。じゃあ、五分後に集合で。遅刻厳禁ですよ?」


 アヤは隣の五〇三号室の鍵を開けながら、釘を刺してくる。


「分かってる」


 俺は自分の部屋に入り、鞄を床に置いた。

 制服のネクタイを緩め、ワイシャツを脱ぎ捨てる。部屋着のスウェットに着替えながら、ふと自分の部屋を見渡した。

 殺風景なほどに物が少ない。必要最低限の家具と、本棚。生活感があるようでない、無機質な空間。これが俺の自宅だ。静かで、誰にも干渉されない場所。


 顔を洗い、手土産代わりのペットボトルのお茶を冷蔵庫から取り出すと、俺は再び廊下へ出た。

 五〇三号室のインターホンを押そうとして、止める。

 鍵は開いているはずだ。

 俺はノブを回した。


「お邪魔します」


 声をかけてドアを開ける。

 玄関のたたきには、アヤのローファーがきちんと揃えて置かれていた。そしてその横に、俺のためのスペースが空けられている。

 昨日、あのダンボールの山を前にして靴の置き場に困った時とは大違いだ。


「どうぞー! 入ってください!」


 奥のリビングから、アヤの声が飛んでくる。

 俺は靴を脱ぎ、廊下を進んだ。

 廊下の両脇に積み上げられていた本のタワーは、綺麗さっぱり消滅していた。床には毛足の短いベージュのランナーが敷かれている。


 そして、リビングのドアを開けた。


「……はぁ」


 部屋は綺麗に片付いていた。

 温かみのあるオフホワイトと木目調。そこにアクセントとして、淡いブルーやグリーンのクッションや小物が配置されている。

 昨日、部屋を埋め尽くしていた大量の本は、壁一面に設置された背の高い本棚に整然と収められていた。背表紙の色ごとに並べ替えられているあたり、彼女の几帳面さ――あるいはこだわりが見て取れた。


 部屋の中央には、低めのローテーブルと、座り心地の良さそうな二人掛けのソファ。

 女子高生の一人暮らしにしては、十分すぎるほどだ。


「どうですか、先輩! 私のセンス!」


 キッチンの方から、アヤが姿を現した。

 その姿を見て、俺は再び言葉を失った。

 制服姿ではない。

 白いブラウスに、動きやすそうなデニムのショートパンツ。そしてその上から、フリルのついた淡いピンク色のエプロンを着けている。

 髪は後ろで緩く束ねられ、うなじが露わになっていた。


 破壊力が高い。

 普段の着崩した制服姿もいいが、この家庭的な装いは、また別のベクトルで俺の精神に揺さぶりをかけてくる。


「……ああ、悪くない。というか、よくあそこからここまで片付けたな」


 俺は動揺を悟られないように、部屋の感想に話を逸らした。


「頑張りましたから!」


「本棚、圧巻だな」


「でしょう? 先輩に貸してあげてもいいですよ? ただし、延滞料金を取りますけど」


 アヤは悪戯っぽく笑い、俺をソファへ促した。


「とりあえず座っててください。今、仕上げをしてますから」


「手伝うか?」


「いいえ! 今日は私が先輩をもてなす日ですから、座ってテレビでも見てていいですよ。あ、そこのリモコンでつきますから」


 彼女は俺をソファに座らせると、小走りでキッチンへと戻っていった。

 ふわりと、肉の焼ける香ばしい匂いと、ソースの甘い香りが漂ってきた。

 なるほど、メニューはハンバーグか。王道中の王道だ。嫌いな男子はいないし、ハズレもない。賢明な選択と言える。


 俺は言われた通りソファに深く腰掛けた。

 身体が沈み込むような柔らかさ。座り心地は抜群だ。

 テーブルの上には、ガラスのコースターが二枚、既に用意されている。

 俺は手持無沙汰に部屋を見回した。


 本棚に近づいてみる。

 並んでいるのは、純文学からライトノベル、海外ミステリーまで多種多様だ。中学時代、図書室で彼女が読んでいたジャンルと重なるものが多い。

 ふと、本棚の一角に、不自然な空白があるのに気づいた。

 何かを隠したようなスペース。

 もしかして、あの「厳重注意」の箱の中身だろうか。

 クローゼットの奥にでもしまい込んだのか、それとも別の場所に隠蔽したのか。


 まあ、詮索するのは野暮というものだ。


 ジュゥゥ、パチパチ。


 キッチンの方から、食欲をそそる音が聞こえてくる。

 フライパンの上で肉汁が弾ける音。

 誰かが俺のために料理を作っている音。

 その響きが、一人暮らしの俺の鼓膜には、ひどく新鮮で、そしてどこか懐かしく響いた。


 親父が海外へ行き、お袋が仕事に没頭するようになってから、この音を聞くことは滅多になくなった。

 それが今、壁一枚隔てた隣の部屋で、後輩の少女によって再生されている。


 俺は立ち上がり、キッチンの入り口からこっそりと中の様子を窺った。

 アヤはコンロの前に立ち、フライパンの様子を窺っている。

 エプロンの紐が、背中で蝶々結びになっている。

 時折、味見をしているのか、小さじでソースをすくい、ふーふーと息を吹きかけてから口に運んでいる。

 その横顔は真剣そのものだ。

 いつもの俺をどこか小ばかにしたような余裕はない。

 「美味しくなあれ」と念じているかのような、必死さが伝わってくる。


「……おい、焦がすなよ」


 俺が声をかけると、アヤはビクリと肩を跳ねさせた。


「わっ! びっくりした……先輩、覗き見禁止です!」


 彼女は振り返り、フライ返しを持ったまま頬を膨らませた。


「ちゃんとできてるか心配だったんだよ」


「失礼な。私の料理スキルを侮らないでください。家庭科の成績は5だったんですから」


「それは実技か? ペーパーテストか?」


「……総合評価です」


 まあ、焦げた匂いはしていないから大丈夫だろう。


「もうすぐ出来ますから、大人しく座っててください。あ、飲み物、冷蔵庫から適当に出してもらっていいですか?」


「了解」


 俺は冷蔵庫を開けた。

 中には麦茶のポットと、炭酸飲料、そして俺が好きな銘柄の缶コーヒーが数本入っていた。

 完全に俺の好みが把握されている。

 俺は麦茶を取り出し、グラスに注いだ。


 数分後。

 アヤが二つの皿をお盆に乗せて運んできた。

 湯気が立ち上る、ふっくらとした大きなハンバーグ。

 付け合わせは甘く煮たニンジンとポテト、そしてブロッコリー。艶やかなデミグラスソースがたっぷりとかかっている。


「はい、お待たせしました! 特製デミグラスハンバーグです!」


 アヤはテーブルに皿を並べ、俺の向かい側に座った。

 エプロンをつけたまま、期待に満ちた目で俺を見つめてくる。


「いただきます」


 俺は箸を手に取り、手を合わせた。

 アヤもそれに倣う。


「召し上がれ」


 俺は箸でハンバーグを切り分け、口へと運んだ。

 熱い。

 そして、肉の旨味とソースの甘みが口いっぱいに広がる。


 ……美味い。

 正直、もっと大雑把な味を想像していたが、肉汁が溢れてきて、ジューシーだ。隠し味に何か入れているのかもしれない。


「……どうですか?」


 アヤがおずおずと尋ねてくる。

 さっきまでの自信満々な態度はどこへやら、俺の判定を待つ受験生のような顔をしている。

 俺は咀嚼し、飲み込んでから、視線を上げた。


「……悪くない」


「悪くない、だけですか?」


「普通に美味いよ。俺はこの味は好きだな」


 簡単な感想を述べる。

 だが、アヤにはそれで十分だったらしい。

 彼女はパッと表情を明るくし、ほっと息を吐いた。


「よかったぁ……。実はちょっと、自信なかったんです。味付け、濃すぎないかなとか」


「俺には丁度いい」


「ふふ、やっぱり先輩のことなら何でも分かりますね、私」


 彼女は嬉しそうに自分のハンバーグを食べ始めた。

 俺たちは向かい合って、食事を進める。

 テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているが、それはあくまで環境音だ。

 この空間を支配しているのは、箸が皿に当たる音と、二人の間の穏やかな空気。


 ふと、アヤが俺の皿を見て言った。


「あ、先輩、ニンジン嫌いでしたっけ?」


 俺がニンジンを避けているわけではないが、無意識に後回しにしていたのを見逃さなかったらしい。


「いや、嫌いじゃない。ただ、最後に食べる派なだけだ」


「ふーん。子供みたいですね」


「うるさい。好きなものを最後に残すタイプなんだよ」


「へえ、じゃあニンジンが好きなんですね?」


「……揚げ足を取るな」


 アヤはくすくすと笑い、自分の皿から切ったハンバーグをひょいと摘まみ上げた。


「じゃあ、このお肉あげます。成長期の男の子にはタンパク質が必要です」


「いらん。自分のがまだある」


「いいから食べてください。あーん」


 出た。伝家の宝刀「あーん」だ。

 しかも今回は箸に直乗せだ。拒否権はないと言わんばかりに、俺の口元に突き出されている。


「……自分で食うから、皿に置け」


「ダメです。箸でのみ受け付けます」


 頑固だ。

 俺は周囲を見回した。もちろん、誰もいない。見ているのは観葉植物と本棚だけだ。

 溜息を一つつき、俺は口を開けた。

 アヤは満足げに肉を放り込む。

 柔らかい。よく捏ねられている。


「おいしい?」


「……まあな」


「素直じゃないなあ。でも、その顔が見られたから満足です」


 アヤはニコニコしながら食事を続ける。

 こいつ、完全に俺を餌付けして楽しんでいる。

 ペットか何かだと思っているのだろうか。

 だが、悪い気はしない。

 誰かと食べる食事というのは、一人で食べるよりも味が濃く感じられる気がする。それが、たとえ騒がしい後輩との食事であっても。


 やがて、俺の皿が空になった。

 最後の一口を飲み込み、水を飲む。

 満腹だ。


「ごちそうさま」


 俺が手を合わせると、アヤがすかさず身を乗り出した。


「おかわり、ありますよ?」


 キッチンの方を指差しながら、彼女は言う。


「いや、もう十分だ。腹いっぱいだよ」


「えー、まだ焼いてないのもあって。……あ、明日の朝ごはんにします?それとも、お昼のお弁当にします?」


「……お前、作りすぎだろ」


「だって、加減が難しくて。それに、先輩ならもっと食べるかなって」


 彼女は少し残念そうにキッチンを見つめる。

 その仕草と、エプロン姿。

 そして、「おかわりは?」というセリフ。


 俺の脳裏に、ある既視感が走った。

 仕事から帰ってきた夫に、妻が夕食を振る舞う図。

 新婚家庭の食卓。


 ……なんだこれは。

 俺たちはただの高校生で、先輩と後輩で、隣人同士だ。

 それなのに、この空気感はなんなんだ。

 妙に馴染んでいるというか、違和感がないというか。

 まるで、これがずっと前から続いていた日常であるかのような錯覚。


 俺は急に顔が熱くなるのを感じた。

 動揺を隠すように、俺はグラスの水を一気に飲み干した。


「……水、もらうぞ」


「あ、はい。どうぞ」


 俺はキッチンへ逃げ込み、冷蔵庫からポットを取り出した。

 冷たい水を注ぎながら、深呼吸をする。

 落ち着け。

 流されるな。

 こいつのペースに巻き込まれたら、俺の平穏は完全に消滅する。いや、もう手遅れかもしれないが、最後の防衛線だけは死守しなければならない。


 リビングに戻ると、アヤが食器を重ねていた。


「あ、皿洗いは俺がやるよ。作ってもらったんだし」


 俺が申し出ると、アヤは首を横に振った。


「いいえ、今日は私がやります。おもてなしですから。先輩はソファでくつろいでてください」


「でもな……」


「いいから! 座ってて!」


 彼女は俺の背中を押し、強制的にソファに戻した。

 そして、鼻歌を歌いながら洗い物を始める。

 水の音。食器が触れ合う音。

 俺はソファに沈み込みながら、その背中を眺めた。


 本当に、変わったな。

 昨日まで、図書室の隅で膝を抱えていた少女だと思っていたのに、今はこうして俺の隣の部屋で、エプロンをつけて皿を洗っている。

 行動力おばけと言うべきか、愛が重いと言うべきか。

 どちらにせよ、彼女が俺の生活に侵食してきているのは紛れもない事実だ。

 そして俺自身も、それを拒絶しきれていない。

 むしろ、この居心地の良さに浸り始めている。


 これはいけない。

 ボッチとしてのアイデンティティが崩壊の危機だ。


「……先輩、何ニヤニヤしてるんですか?」


 いつの間にか洗い物を終えたアヤが、タオルで手を拭きながら俺の顔を覗き込んでいた。


「別にニヤニヤしてない。考え事だ」


「へえ、私のこと考えてました?」


「……自意識過剰だ」


「図星ですね」


 アヤは嬉しそうに笑い、俺の隣に座った。

 距離が近い。

 ソファが少し沈み、彼女の体温が伝わってくるようだ。

 エプロンを外した彼女からは、シャンプーの香りと、ほんのりとソースの匂いが混じった、生活の匂いがした。


「部屋、気に入ってくれました?」


 彼女は改まって訊ねてくる。


「ああ。いい部屋だ。お前にはもったいないくらいだ」


「ひどい言い草ですね。でもまあ、合格点をもらえたならよかったです」


 彼女は満足げに頷き、テレビのリモコンを手に取った。

 チャンネルを適当に変える。

 ニュース番組が流れている。

 外はもうすっかり夜だ。窓の外には、街の明かりが広がっている。


「……そろそろ帰るか」


 俺は時計を見た。八時を過ぎていた。

 長居しすぎた。これ以上ここにいると、本当に帰るタイミングを失いそうだ。


「えー、もう帰っちゃうんですか? デザートのアイスがあるのに」


「腹いっぱいだって言っただろ。アイスはまた今度だ」


「ちぇっ。じゃあ、明日一緒に食べましょう」


 当然のように「明日」の約束を取り付けてくる。

 俺は立ち上がり、背伸びをした。

 満腹感と、心地よい疲労感。


「じゃあな。ごちそうさん」


「はい。お粗末様でした」


 アヤは玄関まで見送りに来た。

 靴を履き、ドアを開ける。

 廊下の冷たい空気が流れ込んできて、少し火照った頬を冷やしてくれた。


「おやすみなさい、先輩」


 アヤがドアの隙間から顔を出して手を振る。


「ああ、おやすみ」


 俺は短く答え、自分の部屋の方へ歩き出した。

 背後でドアが閉まる音。

 カチャリ、と鍵がかかる音。


 俺は自分の部屋の鍵を開け、中に入った。

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「先輩、私のこと好きですよね?」高校デビューした後輩女子が、『新婚ごっこ』を強制してくる件について。 速水静香 @fdtwete45

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