第五話:地学準備室を占拠せよ!


 キーンコーンカーンコーン。


 始業や休み時間、あるいは昼休みの時間の終わりを告げるそれとは明らかに異なる、どこか解放感を孕んだチャイムの音が、校舎の隅々にまで染み渡っていく。

 放課後だ。

 高校生にとって、一日の中で最も自由で、最も輝かしい時間の始まりを告げる合図。

 担任教師が「じゃあ、日直、号令」と素っ気なく告げ、形式的な挨拶が終わるや否や、教室の空気が一変した。まるで圧縮されていた気体が爆発的に膨張するかのように、生徒たちのざわめきが一気に空間を支配する。


「ねえ、今日駅前行かない?」

「部活だりー、マジで行きたくねー」

「カラオケのクーポンあるんだけど!」


 それぞれの放課後が、それぞれの熱量で動き出す。部活動へ向かうジャージ姿の連中、早々に鞄を持って教室を飛び出す帰宅部、身だしなみを気にし始める女子グループ。


 そんな喧騒の中、俺は、誰とも視線を合わせないように細心の注意を払いながら、教科書を鞄に詰め込んでいた。

 俺の放課後の予定は決まっている。


 家へ帰る。


 誰にも邪魔されず、誰とも会話せず、自室という環境で静寂に浸る。隣に住む台風のような後輩、一ノ瀬アヤが帰ってくる前に、少しでも平穏な時間を確保しなければならない。昨日の引越し騒動、今朝の登校イベントと、俺の精神力は削られ続けている。しばしの回復の時間が必要なのだ。


 鞄のジッパーを閉め、席を立つ。

 目指すは昇降口。そして自宅。

 最短ルートを脳内でシミュレーションしながら、教室の後ろのドアへと足を向けた。


 ブブッ。


 ズボンのポケットの中で、スマートフォンが短く、しかし鋭く震えた。

 嫌な予感が背筋を駆け上がる。

 このタイミングでの通知。ろくなことであるはずがない。

 無視だ。気づかなかったことにすればいい。

 俺は歩調を緩めず、廊下へと出る。


 ブブブッ。ブブッ。


 震動は止まらない。むしろ、こちらの無視を許さないという強い意志を感じるリズムで、俺の太腿を小突き続けてくる。

 これは、緊急地震速報か何かか?

 いや、それよりももっと個人的で、回避不能な災害警報に違いない。

 俺は溜息をつき、廊下の隅、掲示板の影に身を隠してスマートフォンの画面を確認した。


 ロック画面に並ぶ、メッセージアプリの通知。

 送信者は予想通り『一ノ瀬アヤ』。

 内容は、俺の血の気を引かせるのに十分すぎる威力を持っていた。


『放課後です!』

『地学準備室に集合ですよ、先輩』

『もし来なかったら、明日の朝、先輩の家の前で拡声器を使って朗読会を開催します』

『題材は、黒き翼の堕天使、その覚醒と孤独』


 俺は画面を握りしめ、天を仰いだ。


 悪魔だ。

 あいつは人の皮を被った悪魔に違いない。


 「黒き翼の堕天使、その覚醒と孤独」云々は、俺が中学二年生という多感な時期に書き綴り、誰にも見られない場所に封印したはずの自作小説の設定ノートの内容だ。なぜあいつがその詳細なタイトルまで把握しているのか、問い詰めたいことは山ほどあるが、今はそれどころではない。


 拡声器を使って朗読?

 新興住宅地の静かな朝に?


 そんなことをされたら、俺は社会的に死ぬ。ご近所さんからの白い目線に耐え切れず、一家で夜逃げすることになるだろう。


 俺に選択肢は残されていなかった。

 行くしかない。

 指定された場所、地学準備室へ。


 俺は踵を返し、昇降口とは逆方向、渡り廊下の方へと足を向けた。

 地学準備室。

 その場所自体は知っている。北校舎の三階、一番奥にある特別教室だ。

 だが、俺はそこに入ったことは一度もない。

 そもそも、地学部は数年前に廃部になっているはずだし、普段は鍵がかかっていて誰も入れない場所だ。理科の授業でも使われることは滅多にない、忘れ去られた部屋だという認識だった。


 なぜ、そんな場所を指定したのか。

 まさか、廊下で立ち話をするつもりか?

 それとも、あいつのことだ、先生に頼み込んで鍵を借りてきたとでもいうのか?

 入学してまだ二日目の一年生が?


 疑問は尽きないが、行けば分かることだ。

 俺は南校舎から渡り廊下を抜け、特別教室棟である北校舎へと足を踏み入れた。


 北校舎は、南校舎とは明らかに空気が違っていた。

 多くの生徒が生活する南校舎には、人間の熱気や話し声、生活の匂いが充満しているが、ここは静寂が支配している。

 理科室、美術室、音楽室。

 特定の授業でしか使われない教室が並ぶ廊下は、ひんやりとしていて、床のPタイルもどこか冷たい色をしている気がした。放課後の部活動の生徒たちも、グラウンドや体育館、あるいは一階の武道場などに集まっているようで、三階まで上がってくる生徒はほとんどいない。


 階段を上る。

 一段、また一段と上るにつれて、遠くの喧騒がフィルターを通したようにこもって聞こえるようになる。

 埃っぽい匂い。古い紙の匂い。

 静かだ。

 本来なら、俺が最も好む環境がここにある。もし鍵が開いていて、誰にも邪魔されないのなら、ここを隠れ家にしたいくらいだ。だが、現実はそう甘くない。学校の設備は管理されており、俺のような生徒が勝手に居座ることなど許されないのだ。


 三階の廊下を奥へ進む。

 突き当たりにある、何の変哲もない教室。 


 上部に『地学準備室』と書かれたプレートが掲げられている。ここだ。


 俺は戸の前で立ち止まった。  

 しんと静まり返っている。中から人の気配は感じられない。  


 やっぱり、誰もいないんじゃないか?  


 アヤの奴、鍵が開かなくて諦めて帰ったのかもしれない。あるいは、俺をここに呼び出すこと自体が目的の嫌がらせで、本人は今頃、優雅にお茶をしている可能性すらある。


 俺はその引き戸の取っ手に手を伸ばした。  

 どうせ施錠されている。確認したら、すぐに帰ろう。  


 アヤには「行ったけど入れなかった」と言い訳ができる。証拠写真を撮っておけばいい。  

 そう自分に言い聞かせ、少し力を入れた。


 ガタッ。


 俺が引こうとするよりも早く、戸がわずかに動いた。


「……え?」


 俺の思考が一瞬フリーズする。  


 開いている?  

 鍵の閉め忘れか? 

 それとも、中に先生でもいるのか?


 ガラガラガラ……。  


 少し乾いた音を立てて、引き戸が横にスライドしていく。  


 俺は恐る恐る、その開いた空間へと足を踏み入れた。


 西日が差し込む室内。

 舞い上がる埃が、光の筋の中でキラキラと輝いている。

 壁際にはガラス戸のついた棚が並び、大小さまざまな岩石や化石の標本が鎮座している。部屋の中央には、事務用と思われる大きな長机。そして、机の周囲にはパイプ椅子。


 そして、その中央にある、長い机の周囲に、制服姿の少女が腰掛けていた。


「遅いですよ、先輩。待ちくたびれて、私がアンモナイトの化石になるところでした」


 一ノ瀬アヤ。

 彼女は足をぶらぶらさせながら、不満げに頬を膨らませていた。

 逆光で表情が見えにくいが、その声は明らかに拗ねている。

 栗色の髪が夕日を浴びて透き通り、周囲の埃っぽい空気とは対照的な、鮮やかな存在感を放っていた。


「……なんで、お前がここにいるんだ」


 俺は呆気にとられながら、背後の引き戸を閉めた。

 アヤは座っていたパイプ椅子から軽やかに立ち上がり、俺の方へ歩み寄ってくる。


「なんでって、私が呼び出したんですから、私がいるのは当然ですよね?」


「いや、物理的な話だ。ここ、鍵がかかってるはずだろ。先生に借りたのか?」


 俺の問いに、アヤはニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「違いますよ。……先輩、知りませんでしたか? ここのドアの鍵、ちょっと持ち上げると簡単に鍵が外れるんですよ」


 彼女は事もなげに言った。


「外れる?」


「はい。去年の秋、文化祭があったじゃないですか。私、当時中学生でしたけど、遊びに来てたんですよ。先輩とは会えなかったですけど」


 俺は昨年のことを思い出す。


 ……えっと、俺は……。

 ああそうだ、クラスの出し物を手伝うふりをしてさっさと家に帰ったんだっけ?


「まったく、先輩ったら…」

「……えっと、さっさと帰って悪かったな」


 とりあえず、面倒な感じがしたので適当に答えた。

 だって、当時、こいつとのメッセージのやりとりでも、こいつからそんなこと一言もなかったからだ。

 ま、事前の連絡すらせずに会おうというのに無理がある。俺は悪くない。


「で、人混みに疲れて校舎をさまよってたら、この部屋を見つけたんです」


 アヤは懐かしむように室内を見渡す。


「鍵がかかってると思ったんですけど、引き戸をこう、ちょっと上に持ち上げぎみに横へずらすと、ガコッて外れて開いちゃったんです。誰でも入れる状態だったんですよ、ずっと」


 俺は絶句した。

 そんな馬鹿な。俺は、ここは厳重に施錠された開かずの間だと信じていたというのに。

 こいつは入学前から、この学校の穴を把握していたというのか。


「だから今日も、その技で入りました。『あー、やっぱり直ってないなー』って思いながら」


「……そうか。じゃあ、ここは誰でもウェルカムな無法地帯だったわけか」


「そうです。それは非常にマズいですよね?」


 アヤは真剣な表情で頷き、一歩、俺に近づいた。


「誰でも入れるということは、先輩と私だけの愛の巣が、外敵に脅かされるということです。それは防がなければなりません」


「愛の巣と言うな。……で、どうしたんだ。まさか、勝手に修理したのか?」


「お前、どういう……」

「はい。実はですね。この部屋の鍵、私が交換しちゃいました!」


 アヤはVサインを作って、満面の笑みを見せる。

 俺は開いた口が塞がらなかった。


 交換した? 鍵を? 勝手に?


「待て待て待て。理解が追いつかない。どうやって? いつ?」

「うーん、話すと長くなるんですけど、要約するとですね」


 アヤは人差し指を立てて、説明を始めた。


「昨日、ホームセンターに行って新しい引き戸用の錠前を買ってきました。お小遣いも飛んじゃいましたけど、まあ必要経費です」


「必要経費って何のだよ」


「先輩と私の関係で、必要なことです!」


 アヤは悪びれもせずに言い放つ。


 はぁ…。


 それで彼女は、今日の昼休みに、ドライバー片手にこの引き戸の鍵を交換したらしい。

 誰にも見られずに? いや、この人気のなさなら可能かもしれないが、それにしても大胆すぎる。


「でも、先生たちが鍵を開けられなくなったらバレるだろ。大騒ぎになるぞ」


 当然の疑問をぶつける。

 鍵が変われば、職員室にある鍵では開かなくなる。そうなれば「誰かが勝手に交換した」という事実はすぐに露呈し、犯人探しが始まるはずだ。


「ふふふ、そこも抜かりはありません」


 アヤは胸を張り、ドヤ顔を決めた。


「今朝、職員室に行ってきました。先生たちが忙しそうにしている隙を突いて、鍵管理ボックスにある『地学準備室』のフックから古い鍵を回収し、代わりにこの新しい鍵のスペアを掛けておきました」


 俺は絶句した。


「先生たちは、鍵の形が変わったことに気づくかもしれませんが、『あ、事務室が交換したのかな』くらいにしか思いませんよ。わざわざ『誰が交換したんですか?』なんて確認して回るほど、この部屋に関心のある先生はいませんから」


 恐ろしいほどの洞察力と実行力だ。


「これで、この部屋に入れるのは、職員室の鍵を使う先生と……このオリジナルキーを持つ私だけ。つまり、ここは私たちのプライベート空間になったわけです」

「……半分犯罪だぞ」

「半分じゃなくて、完全にセーフです。誰にも迷惑かけてませんし、むしろ壊れかけの戸を直したんですから、感謝状をもらいたいくらいです」


 そのポジティブ思考、少し分けてほしいくらいだ。

 俺は溜息をつき、近くにあったパイプ椅子を引き寄せて座り込んだ。

 立っているだけで目眩がしそうだったからだ。


「で、俺を呼んで何をするつもりだ?鍵交換の自慢話か?」


「違いますよ。これからが本題です」


 アヤは鍵束から、一本の鍵を取り外した。

 そして、俺の手を取ると、強引にその掌に鍵を押し付けた。

 金属の冷たく硬い感触。


「はい、どうぞ。先輩の分です」


「……は?」


「だから、合鍵です。私が持ってても仕方ないですし、先輩にあげます」


 俺は掌の中の鍵を見つめた。

 精密に刻まれたディンプルキー。これが、この部屋へ入るために必要なもの。


「いらん。俺を巻き込むな」


 俺は突き返そうとした。

 こんなものを持っていたら、俺も同罪だ。もしバレたら、「僕もグルでした」と自白させられる未来しか見えない。


「受け取ってください。じゃないと、明日の朝……」


「分かった! 分かったから!」


 俺は慌てて鍵を握りしめ、制服のズボンのポケットに突っ込んだ。

 あの朗読会の脅しは、俺に効く。それも劇薬だ。


「ふふ、素直でよろしい」


 アヤは満足そうに頷くと、長机の下に置いていたスクールバッグの中からゴソゴソとコンビニ袋を取り出した。

 ガサガサと音を立てて中身を広げる。

 ポテトチップス、チョコレート、グミ、炭酸飲料。

 長机の上が、一瞬にしてジャンクなお菓子パーティの会場と化した。


「さ、お祝いしましょう。私たちの新しい拠点、落成記念パーティーです!」


「……飲食禁止だろ、ここ」


「堅いこと言わないでください。誰も見てませんよ」


 彼女はポテトチップスの袋をパーティ開けにして、俺に差し出してくる。

 コンソメの匂いが鼻をくすぐる。

 俺は観念して、一枚手に取った。

 ザクリ、という音が静かな部屋に響く。


「……で、これから毎日ここに集合するつもりか?」


「毎日とは言いませんけど、基本的にはここを待ち合わせ場所にしましょう。教室まで迎えに行くと、先輩嫌がるじゃないですか」


「当たり前だ。あんな目立つ真似されたら、俺の寿命が縮む」


「でしょ? だから、ここなら誰にも見られずに合流できます。合理的だと思いませんか?」


 確かに、一理ある。

 昇降口で待ち伏せされるよりは、ここで落ち合って、時間をずらして帰るなりなんなりした方が、周囲の目は誤魔化せるかもしれない。

 ……いや、待て。そもそも「一緒に帰る」ことが前提になっているのがおかしいのだが。


「先輩、チョコ食べます?」


 思考を巡らせている俺の口元に、アヤが剥いたチョコレートを突き出してくる。


「自分で食う」


「えー、あーんしてあげますよ。ほら、口開けて」


「断る。子供扱いするな」


「むぅ、可愛くないですねー。せっかくの後輩の手作りあーんなのに」


「手作りじゃないだろ、市販品だろ」


「シチュエーションが手作りなんです!」


 わけのわからない理屈をこねながら、アヤは自分でチョコを口に放り込んだ。

 もぐもぐと頬を動かす小動物のような仕草。

 夕日に照らされた横顔は、悔しいが絵になる。

 高校デビューして垢抜けた彼女は、黙っていれば、学校カースト一軍の女子生徒にしか見えない。まあ、喋り出すと、この通り嵐のような性格だが。


 俺はペットボトルの炭酸飲料を煽りながら、部屋を見渡した。

 棚に並ぶアンモナイト、三葉虫、名前の分からない鉱石たち。

 彼らは何年も、何十年もこの部屋で沈黙を守ってきたはずだ。

 そこに突然、こんな騒がしい侵入者が現れて、さぞ驚いていることだろう。


「……ここ、埃っぽいな」


「そうですね。今度、掃除道具持ってきます。先輩も手伝ってくださいね」


「なんで俺が」


「だって、私たち『二人』の部屋なんですから。折半ですよ」


 当然のように巻き込んでくる。

 だが、ここまで本気で俺のことを巻き込んでくる彼女の態度に対して、強く否定する気になれなかった。


「……掃除くらいなら、付き合ってやるよ」


 俺がぶっきらぼうに言うと、アヤは目を丸くし、それから花が咲くように破顔した。


「やった! 言質とりました! じゃあ、明日は雑巾とバケツ持参で集合ですね!」


「明日は早すぎるだろ」


「善は急げです。あ、ついでに私の宿題も手伝ってくださいね。数学が全然わかんなくて」


「それは自分でやれ」


「えー、ケチー。先輩、教えてくださいよー」


 彼女は俺の腕を掴み、ぶんぶんと揺さぶる。

 甘い匂いが近づく。

 体温が伝わる。

 俺は溜息をつきながらも、その手を振り払うことはしなかった。


 窓の外では、学校の周囲を囲むフェンスの向こう、住宅街の屋根の向こうに、太陽が地平線に沈もうとしている。

 空が茜色から群青色へとグラデーションを描き、一番星が小さく瞬き始めていた。

 俺とアヤ、二人きりの地学準備室。

 新しい鍵によって閉ざされたこの空間は、世界のどこよりも安全で、そしてどこよりも騒がしい、俺たちの秘密基地になったようだ。


 お菓子の袋が空になると、アヤは名残惜しそうに立ち上がった。


「さて、そろそろ帰りますか。あんまり遅くなると、お肌に悪いですし」


「お前は女子力高いのか低いのか分からんな」


「高いですよー。スーパーハイレベルです」


 彼女はゴミを丁寧にまとめ、鞄に入れた。立つ鳥跡を濁さず、ということか。

 俺も椅子を元の位置に戻す。


 部屋を出て、廊下に立つ。

 アヤが引き戸を閉め、新しい鍵を差し込む。

 カチリ、と硬質な音がして、シリンダーが回った。

 その音は、今日の終わりの合図であり、明日への拘束の音でもあった。


「よし、施錠完了」


 アヤは鍵をポケットにしまい、俺を見上げてにっこりと笑った。


「帰りましょう、先輩。私たちのお家に」


「お家って言うな。マンションで別室だ」


「同じ屋根の下に住んでるんだから、誤差ですよ誤差」


 彼女は軽快な足取りで階段へと向かう。

 俺もその背中を追う。

 ポケットの中の鍵が、歩くたびに太腿に当たって存在を主張する。

 これから毎日、この鍵を使ってここに入り、彼女と顔を合わせることになるのか。

 それは間違いなく面倒な義務だ。

 平穏を愛する俺にとっては、避けるべき事態だったはずだ。


 ただ、その中心にいる台風の目が、前を歩くこの小さな後輩だと思うと、まあ、悪くないか、と諦めにも似た感情が湧いてくるのだった。


「先輩、今日の晩御飯なににします?」


 階段の踊り場で、アヤが振り返って尋ねてくる。


「俺はコンビニ弁当で済ませる」


「えー、不健康! じゃあ私が作ってあげましょうか? 得意料理は卵かけご飯です!」


「それは料理とは言わん」


「美味しいですよ? 隠し味に愛情が入ってますから」


「胃もたれしそうだな」


 軽口を叩き合いながら、俺たちは誰もいない廊下を並んで歩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る