第二章:二日目
第四話:毎朝のインターホン連打は愛のムチ?
ピンポーン。ピンポーン。
電子音が耳を攻撃していた。
それはスマートフォンのアラームが奏でる優雅なメロディではなく、もっと無機質で、こちらの安眠を妨害することに特化した暴力的な響きだった。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
俺は布団の中で眉根を寄せ、不快感に身をよじった。
意識はまだ泥のような微睡みの中にある。夢と現実が曖昧な状態で、脳がその発生源を特定しようと緩慢に動き出す。
夢ではない。現実の音だ。
枕元のスマートフォンを手探りで掴み、画面をタップする。バックライトの光が網膜を刺した。
六時四十五分。
俺の起床予定時刻まで、あと三十分は猶予があるはずだった。
親父は単身赴任で海の外におり、お袋も仕事が多忙で滅多にこの家に帰ってこない。実質的に俺ひとりの家と化しているこの部屋において、早朝の来訪者など存在するはずがないのだ。
新聞の勧誘か? それとも早朝から布教活動に勤しむ熱心な宗教家か?
どちらにせよ、この時間に他人の家の呼び鈴を連打するなど、まともな神経をした人間の所業ではない。
ピンポーン。ピンポーン。
音は止まない。むしろ、こちらの居留守を許さないという強い意志を感じるほど、間隔が短くなっている。
このまま無視を決め込めば諦めて帰るだろうか。いや、この執拗さは異常だ。緊急事態かもしれない。下の階で火災が発生したとか、管理会社からの緊急連絡とか。
俺は重たい瞼をこじ開け、のろのろと上半身を起こした。四月の朝の空気はまだ冷たい。毛布を跳ね除けると、ひんやりとした冷気がパジャマの隙間から入り込んでくる。
あくびを噛み殺しながら、俺はリビングを抜け、玄関へと向かった。
モニター付きインターホンの親機が、廊下の壁で赤く点滅している。
俺は受話器を取る前に、まずは液晶画面を確認した。
そこに映し出されていたのは、火事場の煙でもなければ、作業服を着た管理会社の人間でもない。
魚眼レンズによってわずかに歪んではいるが、見間違えるはずのない顔。
昨日、俺の平穏な生活を粉々に粉砕した張本人。
一ノ瀬アヤだった。
制服姿だ。しかも、昨日のような着崩したスタイルではなく、幾分か整っているように見える。朝の日差しの中で、彼女はカメラに向かってピースサインを作っていた。
俺は受話器を取らず、そのままモニターの「通話」ボタンを押した。
「……何だ」
寝起きの不機嫌さを隠そうともせず、俺は唸るように言った。
スピーカーから、ノイズ混じりの、しかしやけに弾んだ声が返ってくる。
『おはようございます、先輩! 朝ですよー!』
「見ればわかる。まだ六時台だぞ」
『高校生の朝は早いんです。ほらほら、いつまで寝ぼけてるんですか。早く開けてくださいよ』
「お断りだ。俺はあと三十分は寝る権利がある。…それにお前、こんな時間にインターホン連打していたら、警察に引き渡されるぞ」
『えー、つれないなあ。せっかくモーニングコールしに来てあげたのに』
「頼んでない。それに、これはコールじゃなくて攻撃だ。今は俺の親がいないからいいがな。もし、今いたらどうなっていたことだろうな…」
俺は彼女をなんとか説得しようとする。
『まー、いいから、いいから。早く開けてくださいってば。じゃないと、ここであの言葉を叫びますよ? 先輩が中学時代に書いていた、あの痛々しいポエムの冒頭を』
俺の思考が一瞬で停止し、次の瞬間、血液が逆流するような感覚に襲われた。
なぜだ。なぜこいつがそれを知っている。あれは俺が中二病を患っていた頃、SNSの鍵アカウントの、さらに深い階層に封印したはずの黒歴史だ。
『くーろーき、つーばーさーがー』
「やめろ!」
俺は叫び、チェーンロックを外して玄関の鍵を回した。
ドアを勢いよく開ける。
そこには、朝の澄んだ空気をまとった一ノ瀬アヤが、悪戯っ子の顔で立っていた。
「やっと出てきましたね。おはようございます、カズキ先輩」
彼女はペコリと頭を下げる。
ふわりと、柑橘系の爽やかな香りが鼻をくすぐった。シャンプーの匂いだろうか。朝からこんなに整った状態で他人の家の前に立てる神経が分からない。
「……おはよう。で、何の用だ」
俺はドアノブを握ったまま、彼女を睨みつけた。
アヤは俺の視線を柳のように受け流し、当然のような顔で言った。
「学校、一緒に行きますよ」
「は?」
「だから、登校です。私たち、お隣さんになったわけですし、学校も同じ。なら、一緒に行くのが道理ですよね?」
道理の意味を辞書で引き直してこいと言いたかった。
確かに物理的な条件は揃っている。だが、俺と彼女の間には、埋めがたい「意識の差」があるはずだ。
俺は平穏を愛する陰の住人。そして、彼女は光を浴びて輝く陽の住人。その二人が並んで歩くなど、生態系の崩壊を招きかねない。
「却下だ。俺は一人で行く」
「どうしてですか? もしかして、私と一緒に歩くのが恥ずかしいとか?」
アヤは小首を傾げ、上目遣いで俺を見る。
その仕草があざといと分かっていても、視線を逸らせない自分が悔しい。
「逆だ。目立ちたくないだけだ。お前みたいな派手な女子と一緒にいたら、余計な注目を集める」
「派手?……まあ、大丈夫ですよ。先輩の存在感の薄さは私が保証します。私の輝きで、先輩なんて背景の一部にかき消されますから」
「それはそれで腹が立つな……」
「それに、私まだ入学したばかりじゃないですか。道に迷うかもしれないし」
「嘘をつけ。駅の向こうに住んでたんだから土地勘はあるだろ」
「あー、バレました?やっぱり先輩には冗談が通じないなあ」
彼女はあっけらかんと笑う。反省という感情など微塵もない。
俺は溜息をついた。
玄関先で問答を続けている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。廊下の向こうから、他の住人が出てくる気配もする。
これ以上、玄関前で騒いでいるところを見られたくない。
「……分かった。百歩譲って、一緒に行くとしてだ」
「はい!」
「俺はまだ着替えてもいないし、飯も食っていない。準備に三十分はかかる。お前を待たせるわけにはいかないから、先に行け」
これは正論だ。女子を待たせるなど、男として気が引けるという建前を使えば、彼女も引かざるを得ないだろう。
しかし、アヤは俺の予想を軽々と超えてきた。
「大丈夫です。想定内ですから」
彼女は手に持っていたコンビニの袋を掲げてみせた。
「朝ごはん、買ってきました。一緒に食べましょう」
「……お前な」
「着替えの時間も計算に入れて、早めに来たんですよ。さあ、冷めないうちにどうぞ。先輩の分は、鮭おにぎりと唐揚げ棒です」
俺の好みを完全に把握している。
こいつは、俺という人間の攻略本でも持っているのか。
俺は天を仰ぎ、そして諦めの息を吐いた。
ここで拒絶しても、彼女は俺が準備を終えるまでドアの前で待ち続けるだろう。近隣住民からの苦情が来る前に、事態を収拾した方が賢明だ。合理的な判断を下すべきだ。
「……五分待て。顔を洗って着替えてくる」
「はいっ! 玄関で待ってますね」
「中には入れないぞ。親がいないからって、女子を連れ込むほど落ちぶれてない」
「ちぇっ。ケチですねー。変な所でガードが堅いんだから」
アヤは口を尖らせながらも、素直に玄関のたたきに留まった。
俺はドアを開け放ったまま、洗面所へと駆け込む。
洗面台のガラスに映った自分の顔は、ひどいありさまだった。髪は寝癖で爆発し、目は半開き。対して、あいつは完璧な身だしなみ。
この差はなんだ。これがリア充とボッチの格差社会か。
冷水で顔を洗い、歯を磨く。
寝癖直しウォーターを乱暴に吹きかけ、手櫛で強引に髪を撫でつける。
制服のシャツに袖を通し、ネクタイを締める。
普段ならニュース番組を見ながらダラダラと過ごす時間を、倍速再生したかのような速度で消化していく。
リビングに戻り、鞄を掴む。
玄関に戻ると、アヤは上がり框にちょこんと座り、スマホをいじっていた。
「お待たせしましたー。お、意外と早いですね」
彼女はスマホをポケットにしまい、立ち上がる。
「追い出されたくないからな。……で、飯は?」
「歩きながら食べましょう。行儀悪いですけど、青春っぽくないですか?」
「お前の中の青春は、随分と雑だな」
「タイパ重視です。先輩も好きでしょ?タイパ」
言い返せない。
俺は靴を履き、アヤと共に廊下へ出た。
自分の部屋、502号室の鍵をかける。
ふと視線を横に向けると、503号室のドアがある。昨日までは赤の他人が住んでいるか、空室だと思っていた場所。
それが今は、こいつの部屋になっている。
「本当に隣なんだな……」
改めて突きつけられた現実に、俺は呟いた。
「今更ですか? ほら、行きますよ」
アヤは俺の背中をバンと叩く。
痛い。遠慮というものがない。
エレベーターホールへ向かう数メートルの道のり。
俺の右側、半歩下がった位置にアヤがいる。
かつての図書室での距離感とは違う。もっと近く、もっと生々しい距離だ。
エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。朝のラッシュ前だからか、他に乗客はいない。
密室。
一階へ降りるまでのわずかな時間だが、二人きりの空間というのは、どうにも居心地が悪い。
俺は視線のやり場に困り、階数表示のデジタル数字を凝視した。
アヤはそんな俺の様子を楽しむように、エレベーター内の反射板越しに視線を送ってくる。
「先輩、ネクタイ曲がってますよ」
「……あ?」
俺が首元に手をやろうとすると、アヤの手が先に伸びてきた。
白い指先が俺の襟元に触れる。
至近距離。
長い睫毛が見える。整えられた爪が、器用にネクタイの結び目を直していく。
「もっとキュッとしめてくださいよ。だらしないんですから」
母親か、お前は。
そう憎まれ口を叩こうとしたが、声が出なかった。
彼女の指が首筋にかすめ、そこから伝わる体温に、思考が一瞬真っ白になったからだ。
甘い香りが強くなる。
俺は息を止めるようにして、彼女の作業が終わるのを待った。
「はい、出来上がり。これで少しはマシな先輩になりました」
アヤは満足げに離れ、俺の胸元をポンと叩いた。
ちょうどその時、一階に到着するチャイムが鳴った。
タイミングが良すぎる。まるで計算された演出のようだ。
エントランスを出ると、外は快晴だった。
新興住宅地の整然とした街並みに、朝の光が降り注いでいる。
俺たちは並んで歩き出した。
渡されたコンビニのおにぎりを開封する。海苔のパリッとした音が、静かな朝に響いた。
「で、部屋は片付いたのか?」
おにぎりを齧りながら、俺は訊ねた。
「はい!おかけさまで、それもこれも先輩のおかげです」
「そうか、そりゃよかった。」
俺は昨日のことを思い出していた。確かに重かった。
本だらけ。まあ、彼女らしいといえばらしい。
「はい。何より、隣に面白いおもちゃが住んでますから、今の生活に満足してまーす!」
「おいおい、俺はおもちゃ扱いかよ」
「退屈しないってことです。昨日だって、先輩のあの驚いた顔、最高でしたもん」
アヤは自分のサンドイッチを頬張りながら、昨日の勝利を反芻するように笑う。
「通報案件だな」
「愛ですよ、愛。」
彼女は可愛らしくウインクした。可愛い。
「ま、隣人が変な奴じゃなくて良かったと思うことにする」
「変な奴って私のことですか? ひどいなあ。こんな美少女が隣に越してきて、ラッキーとか思わないんですか?」
「美少女ねえ……中身が詐欺師じゃなければな」
「詐欺師だなんて。私はただ、演出にこだわっているだけです」
アヤはくるりと回り、スカートを翻す。
確かに、すれ違うサラリーマンや他の学生が、彼女を振り返って見ている。
外見の完成度は高い。それは認めざるを得ない。
だが、その皮の下にあるのは、俺と同じような屈折した思考を持つ、一人の不器用な人間であることを俺は知っていた。
通学路は、昨日の朝、アヤが俺の後をつけてきたルートで、昨日の帰り道とまったく同じ経路だ。
ただ、今日は二人で並んで歩いている。
昨日感じた背中のむず痒さは消え、代わりに隣を歩く存在感の圧力が常にかかっている状態だ。
「そういえば、先輩。昨日の夜、壁叩きました?」
「……いいや」
「えっ、絶対に叩きましたよね!『うるさい』っていう苦情?」
「違う、俺はそんな近所迷惑なことをしない」
「はいはい、そういうことにしておきます」
会話が途切れない。
かつて図書室で無言の時間を共有していたのが嘘のようだ。
いや、SNSでのやり取りをそのまま現実に持ち込んだような感覚か。テンポよく言葉が返ってくるのは、悪くない気分だった。
駅前を通り過ぎ、学校への坂道に差し掛かる。
同じ制服を着た生徒の数が増えてくる。
俺の警戒レベルが自動的に引き上げられた。
ここからは「学校」という社会のテリトリーだ。カースト制度が機能し、人間関係の派閥が渦巻く戦場だ。
俺のようなモブキャラが、アヤのような目立つ女子と一緒に登校しているところを見られれば、どんな噂が立つか分からない。
「おい、少し離れろ」
俺は小声で警告した。
「えー? なんでですか」
「目立つ。学校に着いたら、俺たちはただの先輩と後輩だ。いや、赤の他人でもいい」
「冷たいなあ。あ、もしかして、彼女だと勘違いされるのが嫌とか?」
「勘違いされると、俺の平穏な生活が脅かされるんだよ。男子からの嫉妬の視線とか、お前の友人グループからの嫌がらせとか」
「大丈夫ですって。先輩、自意識過剰ですよ。それに私は、ですね。まあ、いいや」
何か含みのある言葉を言い放ちながら、アヤは離れるどころか、わざとらしく俺の方に寄ってきた。肩が触れるか触れないかの距離。
周囲の視線が突き刺さる。
「あの子、誰?」「かわいくない?」「隣の地味な奴、誰?」「なんであいつと?」
幻聴ではない、リアルな囁き声が聞こえてくるようだ。
「……お前、面白がってるだろ」
「バレました? 先輩が困った顔するの、好きなんですよね」
最悪の嗜好だ。
こいつはSだ。間違いなく。それも、ターゲットを俺一人に絞った執拗なタイプだ。
校門が見えてきた。
教師が立って挨拶運動をしている。
俺は観念した。ここで走って逃げても、余計に目立つだけだ。
堂々としているしかない。そう、俺たちはただ偶然、同じタイミングで校門をくぐるだけの、無関係な二人の人間だ。
そう自分に言い聞かせ、少し距離を取ろうとした瞬間だった。
アヤがすっと身体を寄せてきた。
「先輩、離れすぎです」
教師の前を通過するその一瞬、彼女は周囲には聞こえない声量で、けれどはっきりと俺に囁いた。
俺がギョッとして横を見ると、彼女は悪戯っぽく口元を緩めている。
どこが「ただの後輩」だ。完全に獲物を逃がさない捕食者の目だ。
「じゃあ、また後で。楽しみにしてますね、先輩?」
校舎の分岐点に差し掛かると、アヤはわざと周囲に聞こえるような甘い声色でそう告げた。
楽しみにしてます、という言葉のニュアンスが、明らかに学校生活の文脈ではない。
彼女は俺の反応を楽しむように小首を傾げ、ひらひらと可愛らしく手を振ると、弾むような足取りで一年生の昇降口へと向かっていった。
その背中を見送る男子生徒たちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
「おい、あの一年の可愛い子、誰に手振った?」「あいつじゃね?」「なんであんな地味な奴が」
殺気にも似た嫉妬の視線。
彼女は最後の最後まで、俺の「平穏」を破壊し尽くして去っていったのだ。
俺は視線の集中砲火から逃げるように、二年生の昇降口へと足を速めた。
これでやっと解放された――なんて思うほど、俺は楽観的ではない。
今の捨て台詞と、あの含みのある笑顔。
まだ何かが続く。確実に。
靴箱を開け、上履きに履き替えようとしたその時だ。
ズボンのポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。
嫌な予感がする。
画面を点灯させると、ロック画面にメッセージの通知が表示されていた。
送信者は、もちろん『一ノ瀬アヤ』だ。
『放課後、地学準備室集合。合鍵の儀式を行います』
さっき別れたばかりだろうが。
俺は、深く溜息をついた。
もはや、俺に拒否権など端から存在しないことは、文末につけられた楽しげなスタンプが物語っていた。
朝の登校イベントが終わったと思ったら、次は放課後のクエストが発生している。
平穏とは程遠い、騒がしい一日が始まろうとしていた。
教室に入り、自分の席――窓際最後尾の聖域に座る。
窓の外を見下ろすと、グラウンドで部活動の朝練をしている生徒たちが見えた。
彼らは青春を謳歌している。
俺もまた、形は違えど、とんでもなく面倒な青春に放り込まれてしまったらしい。
再び、ポケットの中でスマホが震えた。
先生が教室に入ってくる直前。
またかよ、と思いながら画面をこっそり確認する。
『あ、言い忘れましたけど。先輩、まだちょっとネクタイ緩んでますよ?』
俺は反射的に自分の首元に手をやった。
しっかりと結ばれたノットの感触。
彼女の指先の熱が、まだ残っているような錯覚を覚えた。
『うるさい。暇人かよ』
そう返信して、俺はスマホを机の中に放り込んだ。
どこかで見ているんじゃないかと思うようなタイミングの良さだ。あるいは、別れ際にチェックしていたのか。
……調子が狂う。
本当に、調子が狂う。
チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。
俺は、観念したように教科書を開いた。
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