第三話:503号室の強制イベント。ダンボールの山と俺
俺は立ち尽くしていた。
場所はマンションの五階。俺の部屋である502号室の、文字通り目と鼻の先。
物理的な距離にして数メートル。
心理的な距離にして、無限大の彼方にあってほしかった場所。
「……嘘だろ」
俺の口から漏れたのは、否定の言葉だった。いや、願望と言い換えてもいい。
これが何かのドッキリであってほしい。実は空き部屋の内見に来ただけで、すぐに帰ると言ってほしい。
だが、アヤの手にある鍵は本物であり、彼女がまとっている空気は、ここを自らの領土と定めた征服者のそれだった。
「嘘じゃありませんよ。正真正銘、今日からここが私の家です。先輩、どうぞ? 記念すべき最初のお客様として招待してあげます」
彼女はドアノブを掴んだまま、招き猫のような手つきで俺を呼ぶ。
俺の脳内にある危機管理委員会が、全会一致で「逃げろ」と警報を鳴らしていた。
この部屋に入ってはいけない。一度足を踏み入れたら、二度と元の生活には戻れない気がする。
俺は首を横に振った。
「断る。俺は帰る」
「えっ」
「俺の部屋はそこだ。徒歩十秒だ。お茶の誘いなら他を当たってくれ」
俺は踵を返し、自分の部屋のドアへと向かった。
鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとする。
これでいい。
隣に住んでいる事実は変えられないが、関わり合いを最小限にすることは可能なはずだ。近所付き合いなんて、現代社会では希薄なものだと相場が決まっている。
「あーっ!」
背後で、素っ頓狂な叫び声が上がった。
俺の手が止まる。
無視だ。無視しろ。これは孔明の罠だ。
「困ったなー! これじゃあ部屋に入れないなー! 重たい荷物が邪魔で、か弱い女子高生一人じゃどうしようもないなー!」
棒読みにもほどがある。
演劇部なら入部初日で退部勧告を受けるレベルの大根役者ぶりだ。
だが、その声量は無駄に大きかった。
静まり返ったマンションの廊下に、彼女の声が反響する。
「誰かー! 親切で、力持ちで、隣に住んでる先輩とかが助けてくれないかなー! このままだと私、廊下で野宿することになっちゃうなー!」
俺は鍵を握りしめたまま、ギリリと奥歯を噛んだ。
脅迫だ。これは明確な脅迫行為だ。
このマンションは壁が厚いとはいえ、廊下の音はそれなりに響く。このまま彼女が騒ぎ続ければ、他の住人が何事かと顔を出すかもしれない。
それに、もし管理人が飛んで来たら、事態はさらに面倒なことになる。
俺はゆっくりと振り返り、わざとらしいポーズで嘆いている後輩を睨みつけた。
「……おい」
「あ、先輩! 奇遇ですね、こんなところにいたんですか?」
「白々しい演技はやめろ。近所迷惑だ」
「じゃあ、助けてくれますか?」
アヤは一瞬で真顔に戻り、期待に満ちた瞳で俺を見上げてくる。
その切り替えの早さは、もはや特技の域だ。
「……荷物を動かすだけだぞ。それが終わったら、俺は帰る」
「はいっ! 交渉成立です! さあさあ、どうぞ!」
彼女は嬉々としてドアを大きく開き、俺を室内へと促した。
俺は渋々、503号室の敷居を跨いだ。
これが、泥沼への第一歩だとは知らずに。
◇
玄関に入った瞬間、俺は言葉を失った。
「……なんだ、これは」
そこにあったのは、部屋ではなかった。視界の全てを茶色が埋め尽くしていた。
天井近くまで積み上げられたダンボール箱の壁、壁、壁。
玄関のたたきから廊下、そして奥のリビングへと続く空間が、すべてダンボールで埋め尽くされている。
これだけの量を前にすると、もはや怒りよりも先に深いため息が漏れる。見ているだけで気力が削がれていく、圧倒的な「ゲンナリ感」がそこには漂っていた。
「引越し初日って、こんなもんじゃないですか?」
アヤは悪びれる様子もなく、あっけらかんと言い放つ。
「限度があるだろ。業者はどうやって搬入したんだ?」
「玄関までは運んでもらったんですけど、中での配置は自分でやるって言っちゃったんですよね。プライバシー的な問題で」
「その結果が、この樹海か」
俺は目の前にそびえ立つダンボールの塔を見上げた。
『衣類』『雑貨』『本』『本』『本』。
マジックで書かれた内容物を見る限り、書籍の比率が異常に高い。
これだけの物量を前にすると、片付けようという意欲が湧くよりも先に、帰りたくなる衝動の方が勝る。
「お前、本当に生活する気あるのか? これじゃあ寝る場所もないだろ」
「だから困ってるんですよー。か弱い私には、この重たい本の山を動かす筋力が足りなくて」
彼女は上目遣いで俺を見る。
か弱い、という単語を二度も強調したが、この量をここまで運び込んだ執念深さを考えれば、筋力など精神力でカバーしそうなものだ。
「……で、俺にこれをどかせと?」
「正解です。さすが先輩、察しがいい!」
アヤはパチパチと手を叩く。
「ちなみに、報酬は?」
「私の手作りスマイルです」
「いらん。帰る」
「嘘です、嘘です! ちゃんと用意してありますから! さっき買ったアイス、ありますよね? あれを食べるスペースを確保するまでが仕事です」
俺の手元には、コンビニ袋がある。中には現在進行形で溶けつつあるアイス。
確かに、このまま放置すればただの甘い液体と化すだろう。
俺は溜息をつき、革靴を脱ごうとした。
だが、脱いだ靴を置くスペースすらない。
「靴はどうすればいいんだ」
「あ、その一番手前の箱の上に乗せてください」
「新品のダンボールの上にか?」
「中身は玄関マットなんで大丈夫です」
雑だ。
見かけによらず、こいつの生活能力は大雑把なのかもしれない。
俺は言われた通りに靴を置き、靴下でダンボールの隙間に足を下ろした。
チラリと洗面所の方が見えたが、そこには真新しい洗濯機が鎮座していた。どうやら生活家電だけは先に設置されているらしいが、それ以外の空間はすべて茶色の箱に侵食されている。
「よし、やるぞ。指示を出せ」
「了解です、隊長! まずはこの『本・漫画』と書かれた要塞を、リビングの奥へ移動させてください!」
アヤが指差したのは、廊下を塞ぐように積まれた最も巨大なタワーだった。
俺は制服の上着を脱ぎ、近くの箱の上に放り投げた。
ワイシャツの袖を捲り上げる。
やれやれ、新学期初日から肉体労働とは。俺の求めていた平穏は、どこへ消えたのだろうか。
俺は一番上の箱に手をかけた。
ずしり、とした重量感が腕に伝わる。
「……重っ」
「あ、それハードカバーの全集が入ってるやつかもです」
「電子書籍という文明の利器を知らないのか、お前は」
「紙で持っていたい派なんです。先輩だってそうでしょ?」
痛いところを突かれる。
確かに俺の部屋も本は多い。紙の匂いとページを捲る感触がなければ、読書体験は完成しないと思っている口だ。
だが、引越しの時だけは、そのこだわりを呪いたくなる。
俺は腰を入れ、箱を持ち上げた。
カニ歩きで廊下を進む。
アヤは俺の後ろから、「右です、右!」「あ、そこ足元注意!」と司令官気取りで声をかけてくる。自分は軽い雑貨の箱を一つ抱えているだけだ。
「おい、もっと働け。俺は客だぞ」
「あら、先輩は『引越し業者さん』の役ですよ? 私は依頼主ですから、指示出しがメインです」
「いつの間に契約したんだよ」
「報酬はアイスで契約済みです」
ブラック企業も真っ青の労働条件だ。
俺は文句を言いながらも、黙々と箱を運び続けた。
リビングに入ると、そこもまたダンボールの海だった。南向きの大きな窓から夕日が差し込んでいるが、その光さえも積み上げられた箱によって遮断されている。
「ここ、503号室だよな? 倉庫じゃないよな?」
「失礼ですね。これから素敵なお部屋になる予定地です」
アヤは俺が運んだ箱を部屋の隅に指定し、満足そうに頷く。
俺は箱を置き、額の汗を拭った。
四月とはいえ、屋内での重労働は暑い。
「次、あっちの『冬服』って箱をお願いします」
「はいはい」
俺は無言の労働機械と化した。
箱を持ち上げ、運び、置く。その単純作業の繰り返し。
だが不思議と、不快ではなかった。
アヤがちょこまかと動き回り、箱を開けては「あ、これ懐かしい!」とか「これはあっち!」とか騒いでいる。その賑やかさが、普段の静かすぎる俺の生活とは対照的で、新鮮だったのかもしれない。
ふと、アヤが高い位置にある箱に手を伸ばしているのが見えた。
不安定に積まれた三段重ねの箱の、一番上だ。
「……おい、それは危ないぞ」
俺が声をかけた瞬間だった。
彼女の指先が触れた反動で、バランスを失った箱がぐらりと傾いた。
「わっ……!」
アヤが小さな悲鳴を上げる。
箱が彼女の頭上へ落下しようとする軌道が見えた。
思考よりも先に、身体が動いた。
俺は床を蹴り、アヤの元へ滑り込む。
彼女の身体を庇うように腕を伸ばし、落下してくる箱を片手で受け止めた。
ズン、という重みが腕にかかる。
中身は衣類のようで、本ほどの殺傷能力はなかったのが幸いだ。
「……っと、危ねえな」
俺は箱を支えたまま、息を吐いた。
ふと気付くと、俺のもう片方の腕はアヤの肩を抱いていた。
至近距離。
アヤの顔が目の前にある。
彼女は目を丸くして、俺を見上げていた。
「……あ」
アヤの唇が小さく動く。
柔軟剤の香りと、彼女自身の甘い匂いが、汗の匂いと混ざり合うことなく、鮮烈に鼻孔をくすぐった。
長い睫毛。少し潤んだ瞳。驚きで少し開いた口元。
その全てが、高解像度の映像として俺の脳裏に焼き付けられる。
静寂が落ちた。
数秒か、あるいはもっと長い時間か。
俺たちは互いの体温を感じながら、硬直していた。
「……大丈夫か?」
俺が絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
アヤはハッとしたように瞬きをし、それからゆっくりと頬を染めた。
その赤さは、夕日のせいだけではないだろう。
「……は、はい。ありがとうございます……」
珍しくしおらしい反応だ。
いつもの人を馬鹿にしたような態度はどこへやら、借りてきた猫のように大人しい。
俺は気まずさを誤魔化すように、支えていた箱を床に下ろし、彼女から身体を離した。
「高いところは俺がやる。お前は下のを片付けろ」
「……はい」
アヤは俯いたまま、小さく頷いた。
その耳が赤くなっているのを、俺はあえて指摘しなかった。
指摘すれば、きっと彼女はまた調子に乗って、俺をからかってくるに違いないからだ。
だが、この沈黙も居心地が悪い。
俺は意識を切り替えるために、近くにあった別の箱に手を伸ばした。
マジックで『厳重注意』と書かれた、少し小さめの箱だ。
割れ物だろうか。
「じゃあ、次はこれを運ぶか」
俺がその箱に触れようとした、その時だった。
「ダメですッ!!」
鋭い叫び声と共に、アヤが残像が見えるほどの速度で突っ込んできた。
さっきまでのしおらしさは何処へやら、野生動物のような俊敏さで俺の手から箱を奪い取る。
「……え?」
俺は呆気にとられた。
アヤはその箱を胸に抱きしめ、警戒心丸出しの目で俺を睨んでいる。
まるで大事な宝物を奪おうとした泥棒を見るような目だ。
「な、何なんだよ。割れ物か?」
「そ、そうです! 超・割れ物です! 私の精神が割れます!」
「精神? 意味が分からん」
「とにかく、これだけは絶対に見ちゃダメです! 開けるのも、触るのも禁止! 国家機密レベルです!」
彼女は顔を真っ赤にして捲し立てる。
そこまで言われると、逆に気になるのが人情というものだ。
だが、中身が何であれ、女子高生の「見られたくないもの」を無理に暴く趣味はない。
「……分かったよ。触らない」
「絶対ですよ? フリじゃなくて、本当にダメですからね!」
「分かってるって。そんな必死になるなよ」
アヤは俺の言葉にようやく安堵したのか、ほう、と息を吐き、その箱を部屋の一番奥、クローゼットの中へと隠した。
一体何が入っていたのか。
昔のアルバムか、それとも変な趣味のグッズか。
まあ、誰にでも隠したい秘密の一つや二つはある。俺にだって、あの中二病時代のポエムノートという核弾頭が存在するのだから。
◇
それから一時間ほど格闘し、ようやくリビングの中央に床が見えるようになった。
ダンボールの山脈に囲まれた、小さな盆地のようなスペースだ。
俺たちはそこにへたり込んだ。
「……疲れた」
俺は壁に背中を預け、天井を仰いだ。
身体中の筋肉が悲鳴を上げている。明日には確実に筋肉痛だ。
アヤも俺の隣で、膝を抱えて座り込んでいた。
「お疲れ様でした、先輩。さすが、頼りになりますね」
「おだてても何も出ないぞ。……で、報酬の時間だ」
「あ、そうでした!」
アヤは立ち上がり、キッチンの方へ駆けていく。
ダンボールの迷宮の中で、唯一文明的な輝きを放っている真新しい冷蔵庫。洗濯機や冷蔵庫などの大型家電だけは、先んじて搬入されていたらしい。
彼女は冷凍庫から、俺たちの買ってきたアイスを取り出して戻ってくる。
片方はバニラ、もう片方はチョコ。
「はい、どうぞ」
俺はアイスを受け取り、蓋を開けた。
確かに、スプーンがすっと入る柔らかさになっている。
一口運ぶと、冷たい甘さが疲れた脳と身体に染み渡った。
「……生き返る」
「ですねー」
アヤも隣でアイスを頬張り、幸せそうな顔をしている。
夕日が沈みかけ、部屋の中がオレンジ色から群青色へと変わりつつあった。
照明器具もまだ取り付けていないため、部屋は薄暗い。
窓から差し込む街灯の明かりが、俺たちの影を床に伸ばしていた。
俺はアイスのスプーンを口に咥えたまま、改めてアヤを見た。
高校デビューした派手な外見。
でも、アイスを食べる時の無防備な表情や、さっきのドジな一面は、昔のままだ。
「……なあ」
「ん? 何ですか?」
「お前、本当になんでこんな暴挙に出たんだ? 隣に引っ越してくるなんて」
俺は以前からの疑問を投げかけた。
朝の「ストーカーかも」という相談が嘘だったことは分かった。
だが、いくらなんでもやり過ぎだ。親を説得し、引越し費用をかけ、生活環境をガラリと変える。そこまでするエネルギーはどこから来るのか。
アヤはスプーンを口から離し、少しだけ遠い目をした。
「……先輩を、驚かせたかったんです」
「驚くどころか、心臓が止まるかと思ったぞ」
「ふふ、大成功ですね」
彼女は悪戯っぽく笑うが、すぐに真面目な顔に戻った。
「私、中学の時、ずっと後悔してたんです。図書室で先輩とただ座ってるだけだったこと。もっと話せばよかった、もっと踏み込めばよかったって」
「……俺は、あれはあれで心地よかったけどな」
「私は欲張りなんです。先輩が卒業して、SNSだけの関係になって……私、怖くなったんですよ。このままフェードアウトしちゃうんじゃないかって」
彼女の声が、静かな部屋に溶けていく。
フェードアウト。
確かに、進学や就職を機に疎遠になる関係は多い。俺のような希薄な人間関係しか持たない人間なら尚更だ。
「だから、高校デビューして、可愛くなって、先輩に会いに行こうって決めました。でも、ただ可愛くなるだけじゃ、先輩は『へえ』で終わる気がしたんです。『変わったな』って一言で片付けられて、また他人行儀な距離に戻されちゃうって」
鋭い。
俺の性格をよく理解している。
もし彼女がただ綺麗になって現れただけなら、俺は「住む世界が違う」と、さっさと遠ざけていただろう。今日の朝、昇降口で逃げたように。
「だから、物理的に逃げられない状況を作ろうと思ったんです」
アヤは俺の方を向き、まっすぐな瞳で俺を射抜いた。
「隣に住めば、嫌でも顔を合わせます。無視できません。先輩の視界に、私が強制的に入り込めます。……どうですか? 私の完璧な作戦」
彼女は胸を張る。
強引で、破天荒で、そしてかなり狂気じみている。
だが、そこまでして俺との繋がりを維持しようとしたその「熱量」は本物で、馬鹿げている。それに俺は圧倒されていた。
「……親への説得はどうしたんだよ」
「それはもう、交渉ですよ!……まあ、うちは放任主義なんで。ある程度の条件さえ満たせば、自由にしてくれるんです」
彼女の声が、少しだけ低くなった気がした。
家庭の事情には踏み込まない。それが俺たちの間の暗黙のルールだ。中学時代から、互いに深い事情は聞かずに、ただその場にいることだけを共有してきた。
だから俺も、それ以上は追求しないことにした。
「お前、その情熱を他のことに使えば、良かったんじゃ?たとえば、受験とか?」
「先輩に関わること以外に使うエネルギーなんて、私にはありません」
きっぱりと言い切る。
その潔さが、俺には眩しかった。
俺はアイスの残りを口に運び、冷たさで頭を冷やした。
そこまで思われているという事実に、気恥ずかしさと、どうしようもない満更でもなさが込み上げてくる。
俺はボッチで、人間関係を避けてきた。
そんな俺に、ここまで執着してくれる人間がいる。それは、俺が思っていたよりもずっと、悪い気分ではなかった。
「……まあ、分かったよ」
「え?」
「お前の覚悟は伝わった。……正直、迷惑だけどな」
「むぅ、素直じゃないですね」
「だが、引越してきちまったもんは仕方ない。隣人として、最低限の面倒は見てやる」
それが、俺のできる精一杯の譲歩だった。
アヤは一瞬きょとんとして、それから花が咲くように破顔した。
「はい! よろしくお願いしますね、先輩!」
その笑顔は、作り物ではない、本心からの輝きを放っていた。
◇
アイスを食べ終え、ゴミをまとめる。
窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。
「さて、今日はこれくらいにしてあげます」
アヤが立ち上がり、パンパンとスカートを払う。
なぜか上から目線だが、解放してくれるらしい。
「助かった。筋肉痛になりそうだけどな」
「良い運動になったじゃないですか。あ、先輩、上着忘れてますよ」
ダンボールの上に放置していた制服の上着を渡される。
受け取ると、彼女はニヤリと笑った。
「これで終わりだと思わないでくださいね?」
「……何だよ」
「明日からは、登下校も一緒ですから。覚悟しておいてください」
「は? 断る」
「拒否権はありません。だって、お隣さんなんですから!」
彼女は有無を言わせぬ笑顔で、俺の背中を押した。
ぐいぐいと押され、玄関まで追いやられる。
「じゃあ、おやすみなさい先輩!また、すぐに会いましょう!」
「おい、ちょっと待て――」
バタン。
目の前で扉が閉められた。
カチャリ、と鍵のかかる音がする。
俺は廊下に一人、放り出された。
手には制服の上着。口の中にはアイスの甘い余韻。
そして、身体に残る疲労感。
「……嵐だな、完全に」
俺は呟き、自分の部屋である502号室の鍵を開けた。
中に入ると、いつもの静寂が俺を迎えた。
整理整頓された家具。読みかけの本が置かれたテーブル。
昨日までと変わらない、俺の部屋。
だが、何かが違った。
静かすぎるのだ。
さっきまでの、アヤとの騒がしいやり取りとのギャップのせいだろうか。
俺は着替えもせずに、リビングのソファに倒れ込んだ。
壁を見つめる。
この白い壁の向こう側、わずか数十センチ先に、あいつがいる。
ガタ、ゴト。
微かに、壁の向こうから物音が聞こえた。
まだ片付けを続けているらしい。
あるいは、俺が開けようとしたあの「厳重注意」の箱を、さらに奥深くへ隠しているのかもしれない。
その音が、妙に心地よかった。
一人ではない、という感覚。
誰かの生活音がすぐそばにあるという事実。
「……平穏とは程遠いな」
俺は天井に向かって独りごちた。
明日からの生活を想像する。
早朝の襲撃。一緒に登校。学校での秘密の共有。放課後の呼び出し。
俺の愛する静かな日常は、間違いなく死んだ。
代わりに始まったのは、予測不能で、騒々しくて、そしてきっと退屈することのない、新しい日常だ。
俺は目を閉じた。
耳を澄ませば、まだ隣から微かな音が聞こえている。
それはまるで、俺の新しい生活のBGMのように、静かな夜にリズムを刻んでいた。
まあ、悪くはない。
俺はそう結論づけ、明日への覚悟を決める前に、まずは風呂に入って汗を流そうと重い腰を上げた。
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