第二話:俺を待ち伏せしていた彼女の、衝撃的な引越し先
代わり映えのしない校長の話と、儀礼的な始業式が終わった。
簡単なホームルームを経て、始業日特有のゆるゆるイージーな日程ですぐに放課後になった。最高だ。
俺は、放課後になるや否や教室を出て、再び昇降口へと向かった。
生徒たちが一斉に帰宅し始め、昇降口は朝以上の喧騒に包まれていた。
俺は柱の陰を利用して、靴箱のエリアを偵察する。
……いた。
俺の靴箱の近くに、さっきの女子生徒が佇んでいた。
壁に背を預け、スマートフォンを操作している。
俯いているため表情は見えないが、その「ゆるふわ」な雰囲気とは裏腹に、獲物を待つような執着心を感じる。
待ち伏せしていたのか。もしかして、この数時間、ずっと?
……いや、さすがにそれはないか。
仮にも彼女はこの学校の制服を着ている、ということは、式の最中はさすがに参加していただろう。
まあ、問題はそこではない。
彼女が俺を逃がさないかのように、そこに先回りして存在しているというところだ。
俺は柱の裏でスマホを握りしめ、アヤに報告を入れる。
『いた。マジで待ち伏せされてるっぽい』
即座に返信。
『突撃しましょう』
『無理だ。死ぬ。あんなリア充オーラを浴びたら蒸発する』
『大丈夫ですって。よく見たら可愛いんでしょ?』
無責任なことを。
俺は柱の陰から再び彼女を観察する。
確かに造形は良い。クラスの中心にいそうなタイプだ。
だが、彼女が画面を見ながらニヤニヤと笑っているのが、ひどく不気味だった。口元が緩んでいるというか、何か悪巧みをしているような顔だ。
その時、彼女がふと顔を上げ、正確に俺が隠れている柱の方へと視線を向けた。
バレた?
いや、完全に身を隠していたはずだ。こちらの気配を察知する能力でも持っているのか?
彼女はスマホを操作した。耳に当てたわけでもないのに、俺の手の中で振動が発生する。
アヤからのメッセージ通知だ。
『今、目が合いましたね?』
は?
俺はスマホの画面と、前方の彼女を交互に見た。
彼女はスマホを片手に持ち、もう片方の手でひらひらと俺に手を振っている。
その口元には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
状況が理解できない。
なぜ、アヤが俺の状況を把握している?
なぜ、あの女子は俺を見ている?
なぜ、メッセージの内容と彼女の動作が完全に一致している?
俺はおそるおそる柱の陰から出た。
彼女は逃げない。それどころか、嬉しそうに一歩近づいてくる。
ピロン、という通知音。
目の前の彼女のスマホからも、同じタイミングで送信音が聞こえた。
『そこまで行かないと気づきませんか?「先輩」』
文字と、彼女の唇の動きが重なる。
「に・ブ・い・で・す・よ、先輩」
彼女はスマホを下ろし、直接声を発した。
その声は、朝の猫なで声とは違う。もっと落ち着いた、SNSでの文面と同じような、少し皮肉めいた響きを含んだ声。
俺は呆然と立ち尽くす。
ゆるく巻かれた髪、トレンドのメイク、着崩した制服。
誰だよ、こいつ。
いや、しかし、俺を先輩と呼ぶ人間は一人しか心当たりがない。
あの中学で一緒だった、文学少女じみた地味な女子生徒。
それに、目の前の女子生徒の声について冷静に考えてみると、俺が知っているそいつの声のような気もする。
「……一ノ瀬?」
俺の口から乾いた声が漏れる。
彼女――一ノ瀬アヤは、満面の笑みで頷いた。
「せーかい。やっと気づきました?」
「は、……え? お前、その格好……」
俺は彼女の頭の先から足元まで視線を走らせる。
どこをどう見ても、あの一ノ瀬アヤではない。だが、中身は間違いなくあの一ノ瀬アヤだ。
「高校デビューってやつですよ。どうです? 似合ってます?」
彼女はくるりとその場で一回転し、スカートをふわりと翻してみせる。
似合っているかどうかと問われれば、悔しいが似合っている。元々の素材が良かったことは知っていたが、ここまで化けるとは。
きちんと身なりを整えるだけで、人間はここまで変われるものなのか。
「お前、騙したのか」
「人聞きが悪いですね。私はただ、先輩が気づいてくれるかなーって試しただけですよ。そしたら先輩、全力で他人のフリして逃げるんですもん。傑作でしたよ、あの必死な顔」
アヤはケラケラと笑う。
朝の遭遇、無視して逃走、チャットでの相談。その全てが彼女の掌の上で行われていた喜劇だったということか。
俺が真剣に「ストーカーかも」と悩んで相談していた時、こいつは画面の向こうで腹を抱えて笑っていたに違いない。
「……性格が悪すぎるだろ」
「知ってますよね? 先輩なら」
彼女は悪びれる様子もなく、ずいっと距離を詰めてくる。
パーソナルスペースなどお構いなしだ。甘い香りが再び鼻をくすぐる。かつてのアヤからはしなかった香りだ。
「で、どうします? これから一緒に帰りますか? それとも、また逃げます?」
彼女は上目遣いで俺を見る。その瞳は、俺の反応を楽しんでいる。
ここで逃げたら、またSNSでネタにされるだけだ。
俺は大きく溜息をついた。完全に負けだ。
「……行くぞ」
「はいっ! さすが先輩、話が早い!」
アヤは弾んだ声で答え、俺の隣に並ぶ。
自然と肩が触れそうな距離感。
周囲の生徒たちが、再びギョッとした顔で俺たちを見ている。「なんであいつがあんな可愛い子と?」という視線を感じたが、無視した。
◇
アヤは当然のように、俺の隣を歩く。
まだクラスメイトの名前すら覚えていない初日だというのに、他クラス、それも上級生と一緒に帰るとはなんなのか。
まず、自分のクラスの友人との関係を大事にして…。
ああ、これはボッチの俺がいうのはおかしいな。それにこいつも、俺と同じボッチだった。
こんな外見になり果ててこそいるけれど。
「先輩、どっか寄って行きません?駅前のカフェならどこでもいいですよ。フラペチーノが飲みたいんです」
「却下だ。直帰する」
「えー、ケチ。先輩のおごりなんて期待してませんよ? 割り勘でいいですから」
「金の問題じゃない。あの雰囲気で死ぬ」
「じゃあ、コンビニでアイス」
「……それなら、まあ」
妥協点を探る会話を交わしながら、俺たちは昇降口を出て、昼下がりの通学路を歩く。
朝に通った新興住宅地の道を、今度は二人で戻っていく。
整備された歩道は並んで歩くには十分な広さがあるが、隠れる場所がないのは相変わらずだ。
アヤは上機嫌に、今日あったクラスでの出来事を話し続ける。
「中学を先輩が卒業してから」「担任の先生がカツラっぽくて」
俺は適当に相槌を打ちながら、彼女の話を聞き流す。この絶妙な配分を、彼女も心地よく感じているようだった。
以前よりも、かなり積極的な気もする。
いや、それはこの外見に引きずられて、俺が勝手に感じているだけかもしれないが。
ふと、アヤが口を閉ざした。
俺が視線を向けると、彼女は少し先にあるマンションを見上げていた。
この辺りでは一番大きな、俺が住んでいるマンションだ。
「……どうかしたか?」
「いえ。先輩の家、あそこですよね」
「ああ。知ってるだろ」
「はい。知ってます」
彼女は意味ありげに微笑むと、再び歩き出した。
駅へ向かう分かれ道に差し掛かる。
俺は直進。彼女は駅方面へ曲がるはずだ。中学時代、彼女の家は駅の向こう側だったからだ。
「じゃあな」
俺は短く告げて、足を止めずに直進しようとした。
「あ、そっちですか。奇遇ですね」
アヤは当然のように、俺と同じ方向へ足を進める。
「……は?」
俺は足を止めた。アヤも止まり、不思議そうな顔で俺を見る。
「駅、あっちだぞ」
「知ってますよ」
「お前の家、駅の向こうだろ」
「それは先月までの話です」
彼女は悪戯っぽく舌を出した。
「私、引っ越したんですよ。こっちの新興住宅地の方に」
こっち方面。同じ町の中でわざわざ引っ越したのか?
まあ、親御さんの都合かな。
俺はそう納得した。
「……へえ、そうか。じゃあ、どこまで一緒だ?」
「さあ? 運命の分かれ道まで、ですかね」
彼女は曖昧に答えて歩き出した。
なんだ、運命の分かれ道って?
信号を渡る。一緒だ。
コンビニの前を通過する。一緒だ。
公園の横を抜ける。一緒だ。
そして、俺の住むマンションのエントランスが見えてきた。
ここでお別れだ。
俺は立ち止まり、アヤを見る。彼女も立ち止まり、俺を見る。
「じゃあな、また」
俺が別れのあいさつをすると、アヤは鞄の中から何かを取り出した。
何かとても見覚えがある、カードキー。そして、それをオートロックの操作盤にかざす。
ピロリン、という解錠音が静寂に響き渡った。
ウィーンと自動ドアが開く。
「おいおい」
「えへへー、先輩。開きましたよ!」
おいおい、同じマンションじゃん。
「どういうことだ?」
「ふふふ、さあ、行きましょう!」
後輩に連れられて、混乱中の俺はエレベーターに乗り込む。
俺が五階のボタンを押そうとすると、彼女は先に五階を押した。
密室の中で沈黙が落ちる。アヤは口元を押さえて笑いを堪えている。
なんなんだ。何が起きようとしているんだ、俺は天井を見上げた。
五階に到着した。
「せんぱーい、いきますよー」
強引に俺は手を引っ張られる。
痛いって!
「うげっ」
思わず変な声が出た。
俺は我慢しつつも、彼女に拉致されるように廊下を歩いた。
俺の部屋は502号室だ。角部屋。
アヤは立ち止まらない。
俺の前を通り過ぎ、すぐ隣。503号室の前で足を止めた。
そして、鍵を鍵穴に差し込み、カチャリと回す。
「ここが、私の新しいお部屋でーす!」
振り返った彼女は、今日一番の、最高に意地悪で、そして最高に可愛い笑顔を見せた。
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