哲学的ゾンビとゆかいな仲間たち

みなもとあるた

哲学的ゾンビとゆかいな仲間たち

・哲学的ゾンビ

哲学的ゾンビとは思考実験の一つである。意識が全くないにも関わらず、他の人間とまったく同じように会話や反応ができ、社会で正常に生活していくことができるような存在を哲学的ゾンビと仮定した場合、意識がある通常の人間と哲学的ゾンビの区別はできるだろうか?という問題である。


哲学的ゾンビは意識を持たないが、叩かれたら「痛い」と反応するし、悲しい出来事が起きれば「悲しい」と言うので、反応を見ても通常の人間と区別することはできない。また、脳波測定などの科学的な方法で確認したとしても通常の人間と同じような結果が出るだけなので、哲学的ゾンビであるかどうかの判断はできない。


逆に、あなたの家族や友人などにも感情があるように見えているだろうが、あなたはその内面を知ることは絶対にできないので、家族や友人に本当に意識があるかを確かめることはできないし、もしかしたら彼らも哲学的ゾンビなのかもしれない。


このように、人間の意識を定義することの難しさについて考える問題が哲学的ゾンビである。




・生物学的ゾンビ

ある生物の脳細胞が死滅しているにも関わらず筋肉や関節が駆動している場合、生物学的にその生物は生きていると言えないものの、生きている時と同じように体が動いているならその生物は死んでいないように見える。


このように、生物学的な生死と見かけの生死が一致しない場合は生物学的ゾンビが発生しているといえる。ゾンビ映画などのフィクション作品でゾンビが登場する場合、基本的にはこのタイプのゾンビである。




・社会学的ゾンビ

誰かが死亡した際に役所へ死亡届を出さなかった場合、その人物はすでに死亡しているにも関わらず社会的には生存していることになるので、この人物は社会学的ゾンビになっているといえる。ちなみに、年金を不正受給するなどの目的で家族の死亡届を提出しなかった場合も、社会学的ゾンビが発生することになるため、日本国内でも毎年数人の社会学的ゾンビが誕生している。




・数学的ゾンビ

ある人物が生後1日目に生きていたとする。その人物が生後n日目にも生きていたとすると、そこから1日後までに死ぬ確率は極めて低いため、n+1日目にもほぼ間違いなく生きていることになる。


この2点について数学的帰納法を適用すると、nがどれだけ大きい数字になってもその人物は死なないことになるが、現実的に人間はいつか死ぬためこの説明とは矛盾する。よって、現実的にその人物は死亡しているが数学的には死亡していないという状況が起こるため、その人物は数学的ゾンビであるといえる。




・天文学的ゾンビ

宇宙のとてつもない広さに比べると光が進む速さは遅く、例えば地球上で太陽の光を見た場合、その光は太陽から一瞬で地球に届いているわけではなく、太陽を8分程前に出発したものが地球に遅れて到達しているのである。


つまり、私たちが普段見ている太陽の姿は8分程前の姿なのだ。このことから、例えば太陽が今爆発して恒星としての一生を終えたとしても、地球人はそのことに8分間程は気付けないことになる。


よってこの8分間程の時間においては、太陽は死んでいるにもかかわらず地球上では生きているように見えるので、この太陽は天文学的ゾンビになっていると言える。


また、はるか遠い星で生活している宇宙人からのメッセージを地球人が受信した場合も、受信した時点でその宇宙人が既に死亡している可能性が十分に考えられるため、その宇宙人は天文学的ゾンビとなる。




・言語学的ゾンビ

現代人が枕草子や源氏物語を読めるように、古文を使用していた人間がすでに死んでいたり、その言語を使用している人間が一人も存在していなかったりしても、後世の人間たちはそれを解読して理解することができる。


このように、誰も使用する人間がおらず実質的に死んでいる言語でも、後世の人間がその言語を生きているように扱える場合は、その言語は言語学的ゾンビであるといえる。




・文学的ゾンビ

 確か僕が彼女と出会ったのはあの大学時代だったと思う。


 無口な彼女と会話したのはほんの数回だったはずだ。その証左に、僕が彼女のことを「彼女」としか呼ばないのは、ひとえに僕が名前を憶えていないからなのかもしれないし、僕の心の中の何かが無意識的に彼女の名前を思い出させないようにしているからなのかもしれない。


 そういうわけで、僕が大学を卒業した後も彼女の足跡を追うなんてことは特に考えもしなかったし、彼女と過ごしたほんの一晩か二晩かで僕の情熱は燃え尽きてしまったのだとずっと思い込んでいた。


 だから今の僕は彼女の生死すら知らない。

 もちろん統計的に考えれば、彼女の年齢で既に死んでいるなんてことは考えにくい。でも、彼女が生きているかあるいは死んでいるかを確定させるような情報を僕は決して欲しいとは思わなかった。


 もしかしたら彼女に囚われて死んでいるのは僕のほうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。


 彼女が生きているにしろ死んでいるにしろ、今の彼女はあの頃の彼女とは違う。僕はそれを認めたくなくて、曖昧なままにしておきたいのだろうか。


 曖昧でないものがただひとつだけあるとすれば、無口な彼女がずっと読んでいたあの文学くらいか。作者だとか題名だとかはっきりとしたところまでは覚えていないが、彼女が僕の腕の中で眠っているときに退屈に任せてその本を読んでみたことがあった。だからその展開は今でも何となく思い出すことができる。


 そういえば、僕が彼女と疎遠になってしまったのはその本を読んだすぐ後くらいだったはずだ。それじゃあまるで、僕と彼女はその本に殺されてゾンビになってしまったみたいじゃないか?


 じゃあ僕はその本に復讐がしたいのか?いや、どうもそうではない気がする。でも、その本が古本屋の書棚のどこか一角にでも安らかに収まっていることを想像すると、今すぐ走り出してそこから引っ張り出してやりたい気持ちになる。


 これはいわば、文学的ゾンビとなってしまった彼女を僕が探し出すための冒険なのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

哲学的ゾンビとゆかいな仲間たち みなもとあるた @minamoto_aruta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ