第3話
国境近くの高台。
監視用に削られた岩盤の上で、カールとアクスは双眼鏡を肩にかけ、淡々と定点観測を続けていた。
「この時期に、わざわざあの川を越えて侵入してくる輩もいないだろう」
アクスは双眼鏡越しに言った。
「“来ない”ではない。“来る価値が低い”だけだ。この辺りは奪う価値のあるものが少なすぎる」
カールは即座に言い切る。
「私にとっては、あのあたりは明日行く価値があるがな」
「は?」
「rosary peaが、この時期に実をつけるはずだ」
「……なんだそれ」
「つる性の小高木だ。赤い小さな種子がなる。非常に美しい」
淡々と説明する。
「装飾品にする国もあるらしい」
「へぇ。じゃあ妹たちの土産に――」
「美しいものが好きなら、確かに喜ばれるだろう」
カールはあっさり肯定する。
「ただし、その種子にはアブリンという毒性タンパク質が含まれている」
間を置かず、続けた。
「加工を誤れば、一粒で死ぬ」
「……お前な」
「上手に装飾品に仕立てれば問題はない。優秀な加工職人を危険に晒したくなければ、お前が頑張るしかないな。」
双眼鏡から目を離すことはないが、カールが少し楽しそうにしてる気がするのが癪であった。
双眼鏡を下ろし、カールは川面を観察する。
水位は通常より低い。
だが、色が悪い。微細な土砂を含んだ濁りが、帯状に流れている。
「水量が減っているな。それに濁っている」
「乾季の影響じゃないのか?」
アクスは双眼鏡を外し、カールの方を見た。カールは双眼鏡を外して、と辺りを見渡している。
視線を上流、さらに山間部へと移す。
尾根に沿って発達する積乱雲。
地表付近では弱い下降風、上空では不安定な上昇気流。
「雲の発達が早い!局地的豪雨が起きる可能性がある。」
アクスが双眼鏡を外した。
「この辺りで?」
「この流域は集水面積が小さい。だが谷が狭く、V字が深い」
地形図を開き、指で谷筋をなぞる。
「降雨が集中すれば、フラッシュフラッドが起きる」
「氾濫するほどか」
「条件は揃っている。上流で短時間強雨が起きれば、逃げる猶予はない」
一瞬の沈黙。
「どれくらいで来る?」
「早ければ三十分。遅くとも一時間以内だ」
アクスは歯を食いしばった。
「下流には国境警備隊の詰所がある。この辺りには民家は無いはずだ。」
「伝書梟を飛ばせ」
カールは即座に指示を出す。
「国境警備隊へ垂直避難を最優先。河岸から離脱。橋梁は封鎖。夜間巡回は中止。川沿いの低地は立ち入り禁止だ」
アクスは無言で頷き、梟を解き放った。
羽音が消えるのを確認してから、低く問いかける。
「俺たちができることは?」
「…ないな。行っても間に合わん」
さきほどより静かさが増した。
夜が深くなっていく。
それに反して不安だけが強くなる。
どうかこの不安が杞憂であれば…
アクスは動揺を隠せない。
遠くで、地鳴りのような轟音が響いた。
増水した水が、谷を叩く音だ。
川の流速が一気に上がり、流木が衝突音を立てながら押し流されていく。
「始まったな。」
カールは独り言のように呟いた。
「規模は中程度。古い家屋が流されるかもしれんが、民家がないのが幸いだな。お前が行ってもあれに飲み込まれるだけだ。明日明朝、現場を国境警備隊に確認してもらおう。」
「あぁ。」
やったことは伝書梟を飛ばしただけだ。自分の力不足を痛感する。
「大丈夫だ。お前の情報で救われる命の方が多い」
まさかしたようにカールが呟いた。
「え?あ…あぁ。そうだといいんだが」
「私のrosary peaも流れたな…。盗賊団たちもいっぱい流れてしまえ」
おもちゃを取られた子どものように見えたが、言っていることがめちゃくちゃだ。
一瞬いいやつだと思ったが、撤回だ。
⸻
フラッシュフラッドは数時間で落ち着いた。
時刻は深夜。
落ち着いたとはいえ、水が流れる音、岩がぶつかる音、木々が折れる音はまだ続いている。
伝書梟が一羽戻ってきた。
「下流にある国境警備隊には死傷者はないそうだ」
アクスは読み上げ、安堵の息をついた。
「良かったな。伝書梟のおかげだ」
「ところで、アクスの梟は何羽いるんだ? 通常は一部隊に一羽支給される高級品だぞ?」
珍しくカールが興味を示した。
「あぁ、俺が個人で使役してるのは五羽だ」
「五羽!?」
「実は伝書梟の飼育育成を専門にする家門でね。上の姉二人のトレーニングが優秀でね、兄は家門も姉たちに譲るつもりで生殖専門と分業制になる予定だ。」
「兄弟が多いんだな」
「あと、妹が五人いる」
「5人? お前の母親の骨盤は無事か?」
カールの目が驚きで見開かれる。いや、そこか…?
⸻
また一羽、梟が戻ってきた。
時を置いて、さらに一羽。次々と増えていく。
「多分、兄弟たちだ。何かにつけて送ってくるんだ。梟も姉たちが『今年の最高傑作だ!』と納品先の軍や行政を差し置いて譲ってくれた結果、5羽になった。世話でほとんどの給与を持っていかれるんだ」
アクスはため息混じりに説明した。
「下の妹たちの中には、王宮勤めの侍女もいる。貴重な情報源にはなるが…こんなに一気に飛んでくると目立つので、やめてくれと頼んでるんだが…」
アクスはそれぞれの梟に餌を与えながら続けた。
「妹からの知らせだ。軍本部にも洪水の報告が届いている」
「下流の国境警備隊も対応中だろう。被害は最小限に抑えられるはずだ」
カールは淡々と頷き、川の濁流を見つめる。
「それなら、私たちがやるべきことは終わったな」
小さく呟く声に、アクスも安心したように肩の力を抜いた。
伝書梟を全て森に放った後、アクスが振り返ると、もうカールは眠っていた。
なるべく簡単な任務が続いてくれるといいんだが。
次の更新予定
無敵と呼ばれる軍人幼女 ゆ @untaro
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