第3話
チョッキンの朝は、境界線の匂いから始まる。布と布の継ぎ目、空気が薄くなる場所、甘さが少し途切れる角。そこに立つと、羽の先がひやりとする。切りたくなるのは、寒さのせいだ。寒さは余計なものを削ぎ落としたくなる。だが削ぎ落としすぎれば、世界は薄くなりすぎる。
彼はくちばしを一度鳴らした。チキン、と乾いた音。音は合図であり、誓いの前の深呼吸だ。鳴らすたび、刃の形をした口が「まだ閉じている」と確かめる。閉じることは、切らないための動作でもある。切る道具ほど、閉じていなければならない。
契約の前後には、誰にも見せない時間がある。人は約束の言葉だけを見たがる。だが約束の前には、言わないことが積もっている。言わないことは尖っている。尖ったまま放置すると、いつか誰かの袖を破る。だから彼は、言葉の端を切る。
森の外れの風は、糸くずを運んでくる。細い白、鈍い灰、湿った黒。チョッキンはその中に、異物の匂いを嗅ぎ取った。甘い匂いに紛れた、乾いた金属の匂い。境界が擦れている。擦れた境界は、いずれ裂ける。
裂ける前に整える。彼の仕事はそれだ。けれど、整えるための衝動はいつも「切る」に寄る。切れば早い。切れば静かになる。切れば、厄介な絡まりが消える。刃の血が騒ぐ。くちばしの根元が熱くなる。だが、切れば消えるのは絡まりだけではない。そこにあった時間も、名前も、戻り道も消える。
足元のフェルトに、裂け目が見えた。まだ糸一本ぶんの細さ。そこに引っかかったのは、旅人のものらしい小さなレース片だった。白く、穴だらけで、軽い。穴の縁が裂け目に噛んで、少しずつ引き裂かれている。レースは抵抗しない。ただ、ほどけていく。抵抗しないものほど、切りたくなる。切って楽にしてやりたくなる。慈悲の顔をした暴力が、彼の中でくちばしを開く。
チョッキンはレース片を拾い上げた。指の代わりに、羽の腹で包む。羽毛の内側は温かい。温かいものを持つと、刃の衝動は少し鈍る。彼は裂け目の前でくちばしを開いた。空気が冷たく鳴った。チキ、と短い音が漏れる。切る準備の音だ。
そこへ、別の音が割り込んだ。ぽとん、と小さく重い音。落ちてきたのは、古いボタンだった。誰かの上着から外れたのか、糸が短く残っている。ボタンは裂け目の近くで止まり、ぐらりと揺れた。揺れは、風ではない。裂け目の向こうから吸われている。境界が「もっと開け」と言っている。
「切ればいいのに」
声がした。森番の小さな布ネズミが、木陰から顔を出している。彼らは境界の補修を手伝うことがある。だが今日は、手が汚れるのが嫌なのだろう。簡単な解決を欲しがる声だった。
チョッキンは返事をすぐにしなかった。返事をすると、言葉の端が尖る。尖った端は切り落とさねばならない。無駄な仕事を増やしたくない。彼はくちばしを閉じ、ボタンに顔を近づけた。金属の匂いではない、古い布の匂いがする。誰かの手の熱がまだうっすら残っている。
「切らない」
彼は短く言った。言い切るほど強い声ではない。確認の声だ。自分に向けた小さな命令。布ネズミが鼻を鳴らした。
「でも裂けるよ?」
「裂ける前に、噛み合わせを直す」
言葉はそれだけで十分だった。説明は布を湿らせる。湿ると糸が重くなる。重い糸は境界を引っ張ってしまう。彼は説明しない。手が語るのが契約の作法だ。
チョッキンは羽の内側にくちばしを差し入れ、赤い糸を引き出した。赤は痛みの色だが、帰り道の色でもある。細い赤を裂け目の周囲にそっと這わせ、縁をなぞる。縁をなぞると、裂け目は「切られる」恐怖から「触れられる」感覚に変わる。境界は触れられると落ち着く。放置されると暴れる。
ボタンの残った短い糸を、赤に絡めて結び目を作る。結び目は栓ではない。呼吸の輪だ。輪を作ると、吸い込みが弱まった。裂け目の向こうの「もっと」が、少し遠のく。レース片はほどけかけた端を保ち、白い穴が形を取り戻す。穴は穴のまま、そこにいられる。
布ネズミが少しだけ目を丸くした。「切らなくても、できるんだ」
チョッキンはうなずかない。うなずくと余計な承認になる。承認はときに依存を生む。依存は次の裂け目で「またやって」と叫ぶ。彼はただ、くちばしを一度だけ鳴らした。チキン。終わりの音ではない。整った音。
赤い糸を短く巻き取り、羽の内側にしまう。しまうとき、糸が羽毛に触れてかすかに温度を持つ。切りたい衝動は、まだどこかで眠っている。眠らせるのも仕事だ。彼は境界に背を向け、次の匂いへ歩き出す。くちばしの刃は閉じたまま、音だけが小さく残っていた。
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