第2話

落ちた、と思った瞬間に、痛みは来なかった。代わりに、身体の内側がふわりと持ち上がった。綿に受け止められたみたいに。空気が甘くて、喉の奥がきゅっと縮む。砂糖じゃない甘さ。記憶の甘さ。いつか毛布に顔を埋めたときの匂いに似ていた。


目を開けると、地面がフェルトだった。草でも土でもない、毛足のある平面。視界の端で、色がやわらかく滲んでいる。怖いはずなのに、怖さの輪郭が丸い。角がないものは、刺さらない。刺さらないから、泣き方もわからないまま立ち尽くす。


「……ここ、どこ」


声は小さく出た。出した途端、空気がそれを飲み込み、ふわっと返してきた。反響じゃない。撫でられるみたいな戻り方。ミナは息を吸って、自分の匂いがまだ残っていることを確かめた。汗と、少しの鉄の匂い。現実側の匂い。甘い世界に混ざっても、消えない。


手のひらを地面に当てた。フェルトは冷たくない。冷たくないというより、温度が遅い。触れたところからじわじわと、手の熱に合わせてくる。ミナは指先で毛足をなぞった。毛の向きがある。逆撫ですると、ざらりと抵抗が返る。順に撫でると、さらりと流れる。道が、感触でできているみたいだった。


ふと、空から影が落ちた。見上げると、綿雲が低い。雲というより、枕が空に貼りついている。端っこがちぎれて、綿の毛玉がゆっくり降りてくる。ミナは反射的に両手を伸ばして受けた。軽い。指の間からほろほろ崩れて、甘い匂いが強くなる。口に入れたら溶けてしまいそうなのに、食べ物だと思うのが怖かった。何でも食べられるわけじゃない、と身体が知っている。


雲の欠片を鼻先に近づけ、匂いを嗅いだ。甘い。けれど、甘さの奥に布の匂いがある。乾きかけの洗濯物みたいな、安心の匂い。ミナはそれを手の中で丸め、こっそりポケットに入れた。持っていると、息が浅くならない気がした。


歩き出すと、足裏が沈む。沈むときの感触は、布団に似ている。でも沈みきらない。ちゃんと戻る。世界がミナの重さを許してくれているみたいに、弾む。足音は、ぱた、ぱた、と鈍い。鈍い音は、心臓に近い。転ばないように慎重に歩くたび、音が「ここにいる」と言ってくれる。


木陰――と言っていいのか分からない、レースの影の下で、白い欠片が揺れていた。枝に引っかかったレース片。雪みたいに軽いのに、ちゃんと布の重みがある。ミナは指でそっとなぞった。刺繍の凸凹が、皮膚に細かい地図を刻む。レースは穴だらけなのに、穴から冷たい風は来ない。穴があるのに安心できるのが、不思議で、少し悔しい。


「……大丈夫」


今度は、言葉を自分に当てるように言った。大丈夫の意味は、まだ分からない。ただ、口に出すと呼吸が整う。レース片を握ると、指の間で空気が逃げる。逃げる空気は、こわばりを連れていく。ミナはレースをポケットの縫い目に挟んだ。落とさないためじゃない。触れたいとき、すぐ触れるため。


夕方が来たのか、空の甘さが少し薄くなった。影が長くなり、色が深くなる。ミナは糸くずの群れを見つけた。風に踊る細い糸。ふわふわで、でも足に絡むと意外に強い。一本をつまみ、指先で引いた。するすると伸び、ぷつりと切れない。切れない糸は怖い、と一瞬思う。けれど、切れないのは悪いことじゃないかもしれない、と次の瞬間思う。つながっていることが、ここでは武器になるのかもしれない。


糸くずを指に一周だけ巻いた。輪ができると、心が少し落ち着く。輪は終わりじゃなく、端が分かる形だ。端が分かれば、戻れる。戻れなくても、少なくとも、迷子のままではいない。ミナは巻いた糸をほどかずに、指先を見つめた。


夜は急に来た。冷えは来ないのに、暗さが来る。暗さは布みたいにかぶさって、音を小さくする。ミナはフェルトの地面に座り込み、ポケットから綿雲の欠片を出した。手のひらでそっと押して、形をつくる。丸く。丸いものは安心する。角があると、そこから不安が滲むから。


ミナは両手を重ね、雲の丸を包んだ。指に巻いた糸が、皮膚にやさしく食い込む。レースの縁がポケットの内側でひんやりと触れる。いま触っているものが全部、本当にここにあるものだと、手が教える。ミナは自分の手を、ぎゅっと握った。眠りが来る前に、手の中の温度だけを確かめていた。

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