第1話

朝は、フェルトの森からほどけてくる。葉っぱの代わりに毛足が揺れて、光は綿の粒になって降りる。窓の外の空気は甘く、まだ眠りの匂いがする。深呼吸をすると、肺の奥がふわりと膨らむ。甘さは食べ物の甘さじゃない。抱きしめた毛布の内側みたいな、柔らかい甘さだ。


店の床はパッチワークで、踏むたびに違う音が返ってくる。コルク布はぽく、麻布はさく、フェルトはほう、と息を吐く。音は素材の自己紹介だ。朝いちばんにそれを聞くのが、僕の作法。音が硬いときは、どこかが冷えている。柔らかいときは、今日の世界がちゃんと呼吸している。


棚の上に、小瓶が三つ並んでいる。透明な瓶に、白い粉みたいな音が薄く溜まったもの。黒い糸くずのような沈黙が底に沈んだもの。もうひとつは、雨のように細い音が浮遊している。音見の瓶は、嗅ぐための瓶でもある。蓋を回し、ほんの少しだけ開ける。匂いが、音の輪郭を連れてくる。白は乾いた紙の匂い、黒は湿った地下の匂い、雨は金属の匂いがする。


僕は一番小さな瓶――雨の瓶を選んだ。今朝は、外の光が少し冷たい。こういう日には、針先が冴えすぎて布を傷つけることがある。雨の匂いを一滴嗅ぐと、針の気持ちが落ち着く。落ち着く、というのは、手が遅くなることじゃない。手が、余計な力を手放すということだ。


作業台の上には、直すものがひとつだけ置かれている。小さな手袋。指先がひとつ、ほつれて口を開けている。穴は小さいのに、油断するとそこから冷えが入り、手全体がしびれる。手袋は道具と同じくらい、生活の道具だ。誰かの手を守るものは、きちんと守られていなくてはいけない。


針山から針を抜く。針は、朝の光を吸って薄く光る。糸は、赤ではなく、生成りの糸を選ぶ。目立たない色は、逃げでも妥協でもない。直した跡が主張しすぎると、持ち主の記憶を上書きしてしまうことがある。修繕は“新しくする”仕事じゃない。“続けられる形”にする仕事だ。だから、痕跡は必要だが、勝手に目立ってはいけない。


糸を針穴に通すとき、指先の毛足がふっと逆立つ。小さな抵抗がある。糸はまっすぐではなく、少しだけ気分屋だ。そこが好きだ。まっすぐ過ぎるものは、折れたときに戻れない。糸は曲がれる。曲がれるものは、生き延びる。針先を濡らす代わりに、指先で糸を撫でて湿り気を足す。甘い匂いが、糸の表面をなめらかにしていく。


チク。針が入る音は、いつも同じじゃない。今日は少し、低い。手袋の布が冷えている証拠だ。僕は穴の縁を先に整える。いきなり塞がない。縁が荒れたまま塞ぐと、穴は“押しつぶされた穴”になって、また別のところが裂ける。縁を縫うのは、穴の呼吸を残すためだ。呼吸を残さない修繕は、いつか窒息になる。


縫い目をひとつ進めるたび、手袋は静かに温度を取り戻す。布が熱を持つのではなく、冷えを手放す。手放すとき、布は少しだけ軽くなる。僕の胸の綿も、それに合わせてふわりと膨らむ。誰かの冷えが抜けるとき、修繕屋の中の綿はよく動く。知らないうちに、僕はその動きで朝を測っている。


はさみを取って、糸の端を切る。シャキ、と音が立つ。切る音は好きだ。終わりの音だからじゃない。余計なものを残さない、という礼儀の音だからだ。切りっぱなしは、布にも記憶にも刺さる。刺さるものは、歩くたびに痛む。痛みは時に必要だけれど、選ばずに残す痛みは、ただの不親切だ。


背後で、棚板がきしんだ。小さな影がひとつ、窓辺を横切る。モスが、朝の点検に来ただけだろう。僕は視線を上げずに、手袋に最後の返し縫いを入れる。返し縫いは、約束の結び目だ。派手な誓いではない。ほどけるときに、ほどけ方が穏やかになるようにする、小さな気遣いだ。


「おはよう」


声がした。店の入口の布のれんが、ふわりと揺れる。返事は作業の途中でしない。針先が迷うから。僕は最後の一針を置き、糸を切ってから顔を上げた。のれんの向こうの影はすぐ引っ込んだ。誰が来たのかは、今は大事じゃない。大事なのは、僕の手の中の手袋が、もう冷えを噛まないこと。


手袋を掌に載せて、指先の縫い目を撫でる。縫い目は少しだけ盛り上がり、そこだけ毛足が短い。修繕は平らにならない。平らにならないから、触ればわかる。触ってわかることは、怖くない。怖いのは、どこを触っても同じになってしまうことだ。世界が同じ顔をするとき、穴は増える。


僕は手袋を小さな紙包みに入れ、棚の「受け渡し」の段に置いた。音見の小瓶の蓋をきゅっと閉める。針を針山に戻し、糸を巻き直す。床のパッチワークをひとつ踏んで、ぽく、と音を確かめる。今日の世界は、まだ柔らかい。


のれんを整え、店の扉代わりのファスナーを、半分だけ下ろす。朝の甘い空気が、店内にすべり込む。僕はいつものように、看板の布を表に出した。それだけで、店は開く。今日は今日の分だけ、縫う。

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