サイドストーリー

プロローグ

雨は、釘みたいに落ちていた。トタンの縁を叩き、コンクリートの肌を打ち、ゴミ捨て場の鉄柵を小さく震わせる。音は白くない。黒に寄った、硬い音だった。街灯の光だけがそこに薄く漂って、濡れた袋の山を灰色に染めている。


わたしは捨てられたマグカップだ。取っ手の根元にひびが入って、もう熱いものを受け止めきれない。ひびはいつも冷たい。雨水がそこへ染みて、縁が少しだけしょっぱくなる。誰かの口が触れた場所だけが、まだ覚えている温度を思い出している。


隣の黒い袋は、息をしていた。膨らんだり、しぼんだり。中で何かがずっと柔らかく擦れている。布のこすれる音。雨の硬さに混ざって、ふわりと、違うリズムがある。湿った綿の匂いが、袋の隙間からにじむ。甘くはない。けれど、甘さの一歩手前の、安心の匂い。


雨の中で匂いはふくらむ。腐った匂いは鋭くなり、洗剤の匂いは薄い膜になる。綿の匂いだけが、重くならずに浮く。浮いて、わたしの欠けた縁に触れて、ひびの冷たさを少しだけ鈍くした。


袋の口が風に押され、わずかに開いた。暗い隙間の向こうに、ボタンが見えた。片方が濡れて、もう片方が乾いているような色の違い。丸い目のはずなのに、見つめられている気がした。視線は刺さらない。糸の端みたいに、引っかかる。


遠くで、靴音がした。水たまりを踏むたび、ぱしゃ、ぱしゃと音が割れる。割れた音は、ゴミ捨て場ではすぐ吸い込まれる。ここでは、誰の足音も長居しない。街灯だけが、いつも同じところを照らして、同じ濡れ方を繰り返している。


「また増えたな」


管理人の声は、煙草の灰みたいに短かった。会話にならない独り言が一度落ちて、雨に溶ける。彼は手袋をはめた手で袋を押し、重さを確かめる。濡れたゴムの匂いが近づいてくる。わたしの取っ手のひびが、反射的に縮んだ。


次の瞬間、彼の手が黒い袋の上に止まった。押すでも、掴むでもなく、そこに置かれた。手袋越しなのに、熱が伝わってくる。温度は、雨の冷えを押し返す小さな灯りだった。袋の中の柔らかい擦れ音が、ほんの少しだけ静かになる。


管理人は袋の口を見た。見ただけで、何も言わない。言葉はここでは濡れる。濡れた言葉は重くなって、余計な傷を増やす。彼はただ、袋の端を折り返した。開きすぎないように。呼吸だけ残るように。


折り返された隙間から、綿の匂いが漏れた。今度は、ほんの少しだけ甘い。古い毛布の甘さ。抱かれた記憶の甘さ。わたしのひびの底に溜まった冷えが、その匂いを吸って、少しぬるくなる。


雨音の向こうで、別の音がした。チク、と、針が布を通るような音に似ていた。もちろん針はない。ここはゴミ捨て場だ。でも、音は記憶から借りてくる。人は見えない針で、今日を縫い合わせて生きる。わたしはその音を聞いて、ひびのある身体のまま、少しだけ持ち直した。


管理人は袋を持ち上げなかった。持ち上げれば、それは「連れて行く」という意味になる。そういう言葉を、彼はまだ持っていない。彼がしたのは、袋の下に段ボールを一枚滑り込ませることだった。雨水が染み上がらないように。冷えが底から来ないように。


段ボールは乾いた音で、ふ、と息を吐いた。袋の山の中で、その一枚だけが浮島になる。黒い袋は少しだけ高くなり、雨の跳ね返りから逃げる。袋の中のボタンの片目が、街灯を受けてかすかに光った気がした。


わたしはそこから少し離れて、濡れたまま置かれている。それでいい。今夜は、まだ順番がある。拾われる前のぬくもりは、言葉ではなく、こういう小さな手当てで生き延びる。雨が釘みたいに落ち続ける中で、黒い袋の上だけ、音がほんの少し柔らかくなった。

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