エピローグ いつかまた、どこかで

放課後の部室は、いつも少しだけ甘いにおいがした。新品の布のにおいと、古い糸のにおいと、誰かのノートの紙のにおいが混ざっている。窓から入る光は白くて、冬の白に近いのに、病院の白みたいに硬くない。机の上に落ちると、布の毛足がふわっと立って、やわらかい影ができた。


ミナは手芸部の机の端に、自分の鞄を置いた。鞄の外側には、修理の跡がいくつもある。赤い糸で縫った小さな星、白い糸で止めたボタン穴、黒い糸で縁取った丸いパッチ。直すたびに模様が増えて、鞄は前よりずっと可愛くなっていた。


鞄の中から、テディがのぞいた。


ボロボロのテディ。片耳は少しほつれて、胸の縫い目は何度も縫い直された跡がある。ミナはその胸を指でなで、そっと鞄の中へ戻した。触れると、布の世界の名残りみたいな、ふわっとした温度が残る気がした。


「ミナ、お願い!」と友だちが駆け込んできた。制服の袖が、椅子の角にひっかかって、びりっと裂けていた。


裂け目は、小さな口みたいに開いている。放っておけば広がる。広がる前に、手で止める。ミナは友だちの袖を受け取り、机に広げた。布の手触りを確かめるように、指の腹でなぞる。つるつるした部分と、毛羽立った部分。裂けたところの端は、少しだけ冷たい。


「大丈夫」ミナは笑った。「直せばもっと可愛くなるよ。私が魔法をかけてあげる」


友だちはほっとして、息を吐いた。部室の空気が、ほんの少し温かくなる。



ミナは裁ちばさみではなく、小さな糸切りばさみを選んだ。先が細いほうが、布を驚かせないから。裂け目のふちに出ている短い糸くずを、ちょん、と切る。


チキン。


音は小さいのに、きっぱりしている。切る=編集。余計なほつれを削ると、布は落ち着く。


次に、糸を選ぶ。友だちの制服に近い色……でも、同じ色にしない。ミナは淡い赤を選んだ。帰還の赤ほど強くない、でも、見ればちょっと元気が出る赤。


針に糸を通す。糸が穴をくぐるとき、すうっと息が通るみたいに見える。ミナは糸の端を指先でねじって細くし、針穴にそっと押し込んだ。まるで、道を教えるみたいに。


「わあ、早い」友だちが言う。


ミナは返事をせず、縫い始めた。裂け目の端を指で寄せ、針を布に入れる。抜く。入れる。抜く。小さな間隔で、糸を渡していく。


チク、チク、チク。


縫う音は、机の上に落ちる小さな足音みたいだった。急がない。引っぱらない。糸が「戻りたい」方向に戻れるように、手で導く。途中で糸がからまったら、指でほどいて、結び目を作らないようにする。結び目はここでは重すぎる。必要なのは、道が通ること。


縫い終わりが近づくと、ミナは糸を二回だけ返して、布の裏側で小さく結んだ。きつく締めない。指が入る余白を残す。余白があると、布は息ができる。


結び目を押さえる指先が、ふっと温かくなった。ミナはその温かさを確かめるように、もう一度、指で結び目を撫でた。


手つきが、どこかで誰かがやっていたのと同じだった。まるで、目に見えない先生に手を重ねられているみたいに。



部室の隅には、白い救急箱が置いてある。絆創膏や消毒液のにおいが、時々ふっと混ざる。白は、清潔で、少しだけ怖い。きれいにしすぎると、痛みまで消してしまいそうで。


ミナは縫った袖を持ち上げ、光にかざした。裂け目はもう口を開けていない。縫い目は、細い赤の線として残っている。傷を隠す線じゃなくて、「ここを越えた」線。


友だちは袖を通し、腕を動かしてみた。「ほんとだ、前より可愛い!」


ミナは笑った。笑うと、胸の奥の穴が、少しだけ小さくなる気がした。穴はなくならない。けれど、風が吹き抜けるだけの穴じゃなくて、手を入れて確かめられる穴になる。確かめられる穴は、怖さが変わる。


鞄の中で、テディが小さく動いた気がした。ミナは鞄の口を指で押さえ、そっと撫でた。泣きたい気持ちは、いつも手へ戻す。抱く手、縫う手、結ぶ手。いまの自分の手が、ちゃんとここにあることを確かめる。


窓の外の空は、高くて青い。遠い場所にいる何かが、そこから見ているような気がした。見ているだけで、触れないけれど、縫う音で支えてくれるもの。


そのとき、ミナの耳の奥で、ふっと声みたいなものがした。


「うん、上手だね」


誰かが褒めた声。風のせいかもしれない。けれど、ミナは「聞こえた」と思った。思うだけで、胸の赤い糸が少しだけ引っぱられる気がした。帰還じゃない。継承の引っぱりだ。


ミナは針山に針を戻し、糸切りばさみを閉じた。チキン、と小さく鳴る。友だちの袖の縫い目を、最後に指で撫でる。指先が、布の毛を立てる。布が生きているように見える。


針が布を抜けるたび、どこかで、やさしい音がした。

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