第30話 パッチワークの夜明け

ミナが階段の上へ消えたあと、広場には「音の抜け殻」だけが残った。


針穴キャンディの屋台は畳まれ、糸飴の赤い光も、もう揺れていない。星くずゼリーの器だけが一つ、フェルト床の上に置き去りになっていた。器は布でできているから、倒れても割れない。けれど指でつつくと、ぽこん、と空っぽの音がした。


空はまだモノクロのままに見えた。白と灰と黒。布の柄も、線だけの影絵になっている。けれどよく見ると、地面の下で何かが動いている。パッチワークの糸が、静かに縫い直されている気配。見えない手が、夜明けの準備をしている。


遠くのモスたちが、輪をほどいた。パラ、パラ、パラ。掃除の祈りが、作業の音に戻る。敵じゃない。終わりが終わったから、いつもの仕事を再開できる――その兆しだった。


チョッキンは星縫い台の縁に立ったまま、しばらく動かなかった。刃先はもう震えていない。涙の跡だけが、刃に薄い膜として残っている。泣く場所が、刃先から手へ戻るまで、少し時間がいる。


「……終わった?」チョッキンが小さく言った。


守人はいつのまにかいない。淡々とした声も消えた。儀式は、終わると跡形を残さない。跡形が残ると、そこにしがみついてしまうから。


代わりに、風が来た。風がフェルトをなで、縫い目の間をすり抜ける。


すう……。


その音が、縫う音みたいに聞こえた。


星縫い台の上には、一本の糸の切れ端も残っていなかった。


トックは一本の光になって、断たれて、螺旋になって、道になって――そのあと、どこへ行ったのか。チョッキンは見上げた。鏡の布は、もう白い部屋も映さない。ただの銀の布として、静かに揺れている。ピッ、ピッ、ピッ、の機械音も、遠のいた。耳をすませば、まだどこかで鳴っている気もする。けれど、それはもう広場の空気を刺さない。


足元のフェルト床に、細い縫い目が走っていた。儀式の赤い円が消えた跡。そこが少しだけ盛り上がり、うねっている。縫い目が落ち着いていない。終わりの後の縫い目は、よくほどける。心が落ち着かないと、布も落ち着かない。


チョッキンはくちばしのハサミを閉じ、足の爪で縫い目を押さえた。押さえるのは、切るのと同じくらい大切だ。編集は、残すことでもある。


そのとき――地面の奥から、声のない声がした。


チク、チク。


耳で聞く音じゃない。足の裏で感じる音。大地が、縫っている。


チョッキンは息を止めた。縫う音が、トックの声だった。言葉じゃない。けれど、わかる。ここにいる。見ている。支えている。


「……トック?」チョッキンがつぶやくと、縫う音が少しだけ強くなった気がした。


チク、チク。


それは「そうだよ」と言う代わりの音だった。


大地が変わりはじめた。


モノクロに見えた地面の上に、ぽつ、ぽつ、と色が戻る。赤じゃない色。薄い青、淡い緑、くすんだ黄色。まるで古い布を洗ったあとに、少しだけ色が戻るみたいに。世界は消えてしまったように見えた。けれど本当は、畳まれて、裏返されて、縫い直されている最中だった。


パッチワークの大地は、前よりも継ぎ目が多かった。丸い布、四角い布、細長い布。古い布もあれば、新しい布もある。縫い糸の色も、そろっていない。赤い糸がここに一本、白い糸があっちに一本。黒い糸も混じっている。黒はヴォイドの名残りでもあり、影の縁取りでもある。影があるから、形が見える。


けれど、黒い穴は増えていない。増えかけた穴は、縫い目の位置取りで外へ追いやられ、縁に留められた。否認の暴走は、ここでは大きな顔ができない。掃除のモスが戻ってきたからだ。


モスたちは、地面の上を低く飛び、ほつれを食べ、糸くずを運んだ。パラ、パラ、パラ。掃除の音。祈りじゃなくて、日常の音。世界が続くときの音。


チョッキンはその音を聞きながら、胸の奥がじんとした。涙がまた出そうになった。けれど泣きは、ちゃんと手へ戻す。チョッキンは自分の羽の付け根を、くちばしではなく、足の爪でぎゅっとつまんだ。そこに触れると、自分の身体がここにあると分かる。


「……ミナは、起きたかな」


答えはない。答えは、いまここではいらない。戻る道は、向こう側へつながった。こちら側には、縫い直す仕事が残った。


小さな危機は、静かにやってきた。


新しい大地の端で、一か所だけ縫い目が浮き上がり、ぱくりと口を開けかけたのだ。大きな穴ではない。指先が入るくらいの、小さな裂け目。それでも、放っておけば広がる。終わったはずの黒が、そこから息を吸い始めるかもしれない。


チョッキンは飛んでいき、裂け目の前に降りた。風が冷たい。白い冷たさが、まだ少し残っている。機械音は聞こえないのに、耳の奥がきゅっとする。境目の余韻だ。


チョッキンはハサミを開いた。けれど切らない。まず、縫い目を見て、糸の向きを読む。どこが引っぱられているのか。どこが縮んでいるのか。


「切る前に、押さえる」


チョッキンは羽で裂け目の左右を押さえ、足の爪で布を寄せた。布が「戻りたい」方向を手伝う。寄せたところへ、風が通る。すう……。縫う音に似た風の音が、裂け目の口を閉じさせた。


チク、チク。


大地の内側から、縫う音が返ってきた。裂け目のふちが、少しずつ落ち着く。縫い目が、布に馴染んでいく。再生は、派手じゃない。静かな危機を、静かに越えることだ。


チョッキンは、そっと刃先を閉じた。チキン、と鳴らさない。今日は鳴らさないほうが、いい。


空の端が白んだ。


夜明けというより、布の裏側が透けてくる感じ。新しい一日が縫われる前の、薄い光。大地の色はまだ揃っていない。けれど揃わないまま、つながっている。つぎはぎのほうが強いこともある。破れたら直せる場所が増えるから。


モスたちは忙しく飛び、掃除を続ける。パラ、パラ、パラ。毛ばたきの音。小さな羽が、世界を整える音。


チョッキンは広場の跡に戻り、フェルト床に座った。星縫い台はもうない。鏡の布も、ただの銀の布として風に揺れている。縫い音は、地面の下で続いている。チク、チク。やさしい。眠りを起こす音じゃない。見守る音だ。


そのとき、遠くで――


ジッ。


小さなジッパー音がした。布を開ける音。裂け目とは違う。ちゃんと作られた、開け閉めできる境目の音。


チョッキンは顔を上げた。音は、すぐに消えた。けれど消え方が、約束みたいだった。


いつかまた、開く。いつかまた、つながる。


風が、もう一度縫う音みたいに鳴った。


すう……チク、チク。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る