第29話 星縫いの儀式(後)
星縫い台のまわりに、最後の屋台が出ていた。布世界は、終わる前ほど甘いものをくれる。
“針穴キャンディ”だ。小さな輪っかの飴で、真ん中に針が通るくらいの穴があいている。穴に赤い糸を通して首にかけると、胸のあたりでコツン、と軽い音がする。帰還の赤が、心臓の前で揺れる。
ミナはその飴を一つ、指でつまんだ。飴は冷たいはずなのに、今日はぬるい。ぬるさの向こうに、白い冷たさが混じっている。鏡の向こうの病院の白。規則の機械音――ピッ、ピッ、ピッ――が、広場のフェルト床を通して足の裏に刺さる。
遠くのモスたちは、羽音を揃えたまま輪になって舞っていた。パラ、パラ、パラ。掃除の祈り。ほこりを払って、道が滑らないように整える音。敵じゃない。終わりの儀式を、きちんと終わらせるための音。
チョッキンは星縫い台の縁に立ち、刃先をそろえていた。目には涙が溜まり、落ちないように瞬きも少ない。刃先が震えるのは、怖いからじゃない。大事すぎるからだ。
トックはミナの手を一度だけ握り直した。泣きは手へ戻す。指先が温かいかを確かめるみたいに、そっと。
「いくよ」トックが言うと、ミナは小さくうなずいた。
守人の声が、淡々と響いた。
「魂糸、一本。星形、最後の角。結びは作るな。通して、道にせよ」
トックの結び目は、もうほとんどほどけていた。彼の体の輪郭が、布みたいに薄くなる。服のしわも、影も、ふわりとほどける。代わりに、一本の光が太くなる。夜明け前の布の色の光。指で触れれば切れそうで、でも目で見ると確かに強い光。
チク、チク。
縫う音が、トックの声みたいに優しくなった。針を持っているのは、もう“手”というより“意志”だった。針先が白い綿芯を貫くと、綿芯はぷに、と小さくへこみ、すぐに戻った。布世界の白だ。硬い白じゃない。抱ける白。
チョッキンが、黒い縁を切り払う。チキン、チキン。ヴォイドの黒は縫えない。だから「近づけない」。位置取りで守る。赤い円の内側に素材を寄せ、黒は外へ、外へ。
ミナは赤い円の内側で、両手を胸に当てた。針穴キャンディの赤い糸が、指の間で揺れる。揺れが止まると、体温も落ち着く。体温は世界の角度だ。傾けば、全部が引っ張られる。
トックの輪郭が、ついに消えかけた。消えるというより、一本に集まる。布が糸になるみたいに。縫い目だけが残って、縫い目が光る。
「トック……」ミナが呼ぶと、トックは笑った気配を残した。
「ここにいるよ。音でね」
チク、チク。縫う音が答える。
鏡の布が、白く硬く光った。
ピッ、ピッ、ピッ。
規則の音が、すぐ近くで鳴った。白い部屋の冷たい膜が、星縫い台の上へ伸び、光る糸の上をなぞろうとする。なぞれば、光は「なかったこと」になりかける。ヴォイドの黒も同時に滲んだ。黒は、白に混じるといちばん厄介だ。きれいな顔をして、穴を広げる。
黒いモスが、綿芯へ狙いを戻した。最後の素材を消しに来る。縫えない消滅が、針先を笑う。
守人は淡々と言った。「完成は、断つことで閉じる。断て。泣きではなく、手順で泣け」
チョッキンの目の涙が、丸くふくらんだ。涙は熱いのに、落ちると冷たい。境目の水だ。チョッキンは瞬きをせず、涙を刃先へ運ぶみたいに、ゆっくり首を下げた。
トックは、もうほとんど一本の光だった。細く、強く、やわらかい。あの枕元のテディの胸の縫い目が、赤く光っていたのをミナは思い出す。ずっと一緒。抱いた手の感触。汗の匂い。涙の塩。ここにあるのに、ここから離れていくもの。
ミナの目にも涙が溜まった。落ちそうで、落ちない。ミナは両手で自分の頬を押さえ、その涙を“手のひらの中”に戻した。泣きは手へ戻す。落とさない。今は、落とす場所があるから。
トックの光が、チョッキンの前で震えた。まるで「お願い」を言う代わりに、縫う音を鳴らす。
チク、チク。
「……ごめん」チョッキンが小さく言った。謝る相手は、光でもあり、ずっと一緒だった時間でもある。
そのとき、チョッキンの涙が刃先に触れた。
チキン。
涙で濡れた刃が、光る糸を断った。切る=編集。断つ=完成。痛いところを切って、道を作るための、最終の手仕事。
断たれた瞬間、光は散らなかった。消えもしなかった。一本だったものが、螺旋になってほどけた。ぐるり、ぐるり。光る糸が、自分で自分を階段の形に編み直す。螺旋階段。上へ、上へ。戻る道が、回りながら立ち上がる。
トックの声は、もう言葉じゃない。縫う音だけが残る。チク、チク、チク。背中を押す優しさの音。
ミナは螺旋階段の一段目に足を乗せた。
足の裏が、フェルトのふわふわから離れる。空気が薄くなる。白い冷たさが近づく。ピッ、ピッ、ピッ。機械音が、階段の上から降りてくる。
ミナの胸の赤い糸が、コツン、と鳴った。帰還の赤が、歩幅を作る。
階段はミナを押し上げた。押す、といっても乱暴じゃない。毛布が背中を押すみたいな、眠りから起こす優しさだ。ミナの体温が、少しずつ向こうへ戻る。布世界の色が、薄くなる。
空が、色を失い始めた。
青が白へ。緑が灰へ。布の模様が、線だけになる。モノクロの世界へ移っていく。けれど――赤だけが残る。赤い糸。赤い縁。赤い飴。赤い呼吸。
ミナは、最後から二段目で足を止めかけた。振り返りたい。振り返れば、布世界のふわふわが見える。観覧車のボタンの音。モスの祈りの羽音。チョッキンの震える刃先。そこに、トックがいた場所。
振り返りそうになった瞬間、体温が揺れた。熱が戻る方向から、横へ逸れる。階段の光が、ひゅっと細くなる。黒い影が階段の隙間から顔を出す。穴は、振り返りを待っている。
「ミナ」
声じゃない。縫う音だ。
チク、チク。
“ここまで縫ったよ。あとは、君が歩く番。”
そんなふうに聞こえた。背中を押す手は見えない。でも、手の温度は残っている。ミナは胸の赤い糸を握りしめた。手で、赤を確かめる。泣きそうな指を、歩く指に戻す。
「……いく」ミナは言った。「戻る」
最後の一段に足を置く。階段が、ふっと光を強める。螺旋が、ミナを上へ押し上げる。
モノクロの世界が広がった。
白と黒と、機械音。ピッ、ピッ、ピッ。そこに、赤だけが一本の線として残る。赤い糸が、ミナの胸の前で震え、どこかへ続いている。
布世界の広場は、遠ざかった。ふわふわのフェルトも、星くずゼリーも、モスの祈りの羽音も、薄い紙の向こうへしまわれるみたいに小さくなる。
それでも、ひとつだけ残像みたいに残ったものがある。
モノクロの景色の中で、赤い屋根だけが残った。布の町のどこかの、小さな家の屋根。帰還の赤で縫われた屋根。それが、目を閉じても消えない赤として、ミナの中に残った。
ピッ、ピッ、ピッ。
機械音が、近くで鳴り続ける。赤い屋根が、遠くで静かに燃えるように残っている。
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