第28話 星縫いの儀式(前)
光る糸の階段の下に、小さな広場ができていた。床は厚手のフェルトで、踏むと「ふわっ」と音が沈む。階段の一段目だけが赤く、帰還の糸で縁どられている。赤はあたたかいのに、どこか胸をつねる色だった。
広場の真ん中には“星縫い台”が置かれていた。丸い刺しゅう枠みたいな台で、縁は白い布――枕雲の白と、病院の白が混ざった白。触ると、最初はやわらかいのに、指を離すと硬い音が残る。
屋台も一つ。売っているのは“星くずゼリー”。透明な布寒天を小さく切って、青い糸蜜にひたしてある。口に入れるとぷるんと跳ね、最後にすうっとほどける。ミナは両手で器を持って食べた。器のふくらみが、今日は熱でふわっとせず、すこしだけ冷たく引っぱられる。向こうの白が、薄い膜みたいに混ざっている。
遠くで、モスたちが羽音を揃えた。パラ、パラ、パラ。ほこりを払う刷毛の音みたいで、掃除の祈りみたいでもある。敵じゃない。布世界を清めて、形を保つための、静かな仕事の音。
「手順を告げる」
振り向くと、守人がいた。布でできた背の高い人形で、顔は縫い糸だけでできている。目も口も糸の結び目。声は低く、淡々として、針が布を貫くときみたいにまっすぐだった。
「一、赤の縁を引く。戻る道の印だ。二、白の枠を置く。揺れを止める。三、黒を外へ払う。穴を台に近づけるな。四、魂糸を一本にほどく。五、星形に縫い留める。縫い終わりは結ばず、通す。通せば、階段は道になる」
トックはうなずき、結び目袋を開いた。いちばん奥の結び目に指をかける。チョッキンは台の縁に止まり、くちばしのハサミを閉じたまま、刃先をそろえる。ミナはトックの袖をつまんだ。泣きそうな指先を、作業の指先に戻すみたいに。
トックは結び目の“端”を探した。ほどくのは、ただ引っぱることじゃない。糸が「戻りたい」と思う方向を聞き当てることだ。
すう……。
ほどける音が、深い呼吸みたいに広場に落ちた。次の輪をほどく。すう、すう。糸は一本ずつ、光を持ち始めた。赤でも白でも黒でもない、夜明け前の布の色。ふれれば冷たく、でも離せばさみしい光。
守人が言った。「魂糸は、ほどけるほどに軽くなる。軽くなるほどに、形を失う。形を失う前に、縫い留めよ」
トックは針を持ち替え、赤い糸で縁を縫った。チク、チク。帰還の赤が円になる。ミナの手を、その円の上にそっと置く。体温は位置だ。熱がある場所に、世界は寄ってくる。
チョッキンが白い布片を切りそろえる。チキン、チキン。切る=編集。余計な端を落として、道だけを残す。
鏡の布の向こうから、規則の音が滲んだ。
ピッ、ピッ、ピッ。
一定の間隔。間違いを許さない音。白い光が、こちらの白い枠に混ざり、やわらかいはずの白が硬くなる。広場の空気が冷えて、ゼリーの甘さが舌に残らなくなった。
ミナの肩が小さくすくんだ。熱が、戻る方向へ傾く。世界が、薄い膜をはがされるみたいに引っぱられる。トックの指の腹が、急に乾いた。縫う音が金属に近づく。チク、チク、が、カチ、カチ、と硬くなる。
守人の声は変わらない。「揺れを言葉にするな。手順で止めよ」
黒も来ていた。鏡の縁の黒、ヴォイドの黒。否認の暴走は、きれいに消したがる。見たくないものを“なかったこと”にするために、穴を広げる。穴は、静かに冷たい。風が通る。声が返らない。
遠くのモスたちは、羽音を揃えたまま、距離を保っている。パラ、パラ、パラ。掃除の祈り。世界がほどけても、ほどけ方が乱れないように、整えている。
トックは一本になりかけた魂糸を見つめた。軽い。軽いほどに、いまにもどこかへ飛んでいきそうだ。ずっと一緒だったものが、ほどけるときの軽さ。抱きしめる腕が空ぶりになるみたいな軽さ。
ミナが小さく言った。「……こわい」
その言葉で糸が、きゅっと縮みかけた。怖さは糸を短くする。短い糸は届かない。届かないと、もっと怖い。
トックはミナの手を両手で包んだ。泣きは手へ戻す。指を重ね、熱がどこへ行くかを確かめるように、ゆっくり握った。
「こわくていい」トックは小さく言った。「手順は、こわさのためにある」
黒が、儀式に触れた。
ヴォイド・モスが、広場の端から湧き、赤い縁の外側をなぞるように飛ぶ。黒い羽が触れたところが、すうっと“無い”になる。布が裂けるのとは違う。裂け目は縫える。でも“無い”は縫えない。針が刺さる場所が消えるから。
守人が淡々と言った。「縫えぬ消滅には、位置取りと手順で守れ。素材を台へ寄せるな。素材のほうを守る円に寄せよ」
トックは赤い縁を二重に縫った。チク、チク、チク。縫う音を太くする。音は、ここにある証拠だ。ミナはその音に合わせて呼吸した。手の温度を、赤い円の内側に落とす。
チョッキンが飛び、黒が触れそうな布片を先に切り離した。チキン、チキン! 痛いところを切る覚悟の音。切って守る。残すために捨てる。編集して、道を残す。
ヴォイド・モスが怒ったように羽ばたき、黒い風が赤い縁を越えようとする。ミナの体温が揺れ、糸がまた縮む。階段の光が一段、ふっと薄くなった。
ミナの目に涙が溜まった。落ちそうで、落ちない。トックはその涙を指で受け、手のひらで包んだ。涙を落とす場所を、消滅に渡さない。
「ミナ、手を」トックが言うと、ミナは震える指でトックの糸を押さえた。押さえる。ここにある。逃がさない。二人の手が重なると、魂糸が一本にまとまり、ふっと光が増えた。
守人が言った。「今だ。星形に縫え」
トックは針を走らせた。チク、チク、チク。一本の光糸が、星の角を結び始める。縫い線が空中に浮き、階段の一段目とつながりかける。
そのとき、ヴォイドの黒が最後の素材――星の中心に置く小さな“白い綿芯”へ伸びた。無い、にしようとする。縫えない消滅が、核心を食べに来る。
チョッキンが、綿芯の前に降りた。自分の刃を盾にするように。黒い風が刃先をかすめ、金属のような冷えが走る。チョッキンの目が細くなる。泣くのをこらえる目。
フッ、と羽音が揺れた。掃除の祈りのモスたちが、遠くで羽音を揃え直す。パラ、パラ、パラ。整える音。
チョッキンの目に、ついに涙が溜まった。刃先が、わずかに震える。
チキン、と鳴りそうで鳴らない、その震えのまま――黒が、刃の上に影を落とした。
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