第27話 決断

鏡の布のまわりに、きょうは「終わりの遊園地」みたいなものができていた。終わり、といっても暗いものじゃない。布世界は、こわいときほど子どもが笑える発明を出してくる。


たとえば、“ほどけるすべり台”。赤い糸で編んだ長い坂で、すべるたびに糸が少しだけほどけて、最後にふわっとクッションの雲布になる。すべった子は、ふかふかの白に埋もれて、笑いながら息を整える。白は病院の白じゃない。枕雲の白だ。


“縫い目の観覧車”もあった。ゴンドラは小さなボタンで、回るたびにカチ、カチ、とボタンが留まる音がして、空のパッチワークが一枚ずつつながって見える。


ミナは観覧車の下で、赤い糸飴を指に巻いた。糸飴は、くるくる巻けて、最後に舌でほどける。甘くて、少しだけ鉄の味がした。戻る道の赤に触れていると、胸がきゅっとする。


チョッキンは屋台の上に止まり、くちばしのハサミを一度だけ鳴らした。チキン。まるで「始めるぞ」と言う合図みたいに。


鏡の布の向こうからは、相変わらず機械音が聞こえていた。ピッ、ピッ、ピッ。白い部屋の規則が、布世界の空気に混ざっている。ミナの体温は、そこへ引っ張られ続けていた。


トックは、すべり台の端に腰を下ろし、ミナの手のひらを両手で包んだ。手は、いちばんここにいる場所だ。


「ミナ」トックはやさしく言った。「わかったことがあるんだ」


ミナはうなずいた。目は赤い糸飴みたいにきらきらしているのに、その奥に影がある。影は、穴の形をしている。


「ミナが目覚めるにはね」トックは言葉を選んだ。「布世界を、いったん畳まないといけない」


“終わらせる”と言わなかった。布を畳む。そう言えば、子どもにもわかる。怖くても、想像できる。


「畳むって……なくなるの?」ミナの声が小さくなった。


「消えるんじゃない」トックは首をふった。「君の心の穴を、塞ぎに行くだけ」


穴、と言った。説明しすぎないために。穴は、だれでも知っている。冷たい風が通る場所。落ちる場所。声が返ってこない場所。


「布世界は、君が寒いときに巻いた毛布みたいなものなんだ。毛布は、眠るときに必要で、起きて歩くときは、肩から降ろしてもいい」


ミナは自分の腕を抱いた。そこにいつも毛布がないと、からだが軽くて、でも心細い。目がうるんだ。けれど涙はまだ落ちない。落ちそうになるたび、指先がトックを探した。


トックは結び目袋を開け、いちばん奥の結び目を取り出した。小さな、けれど重い結び目。糸が何重にも絡んでいて、指が触れるだけで過去が動く。


「これが、ぼくの結び目だよ」


ミナが息を止めた。チョッキンも黙った。モスたちだけが静かに舞う。摂理の虫は、終わりを邪魔しない。終わりも、始まりの一部だと知っているから。


トックは糸の端を探した。結び目は、ほどくために結ばれている。けれど、ほどく順番を間違えると、糸は縮む。ぎゅっと固くなって、戻らなくなる。


「最初は、ここ」トックはつぶやき、爪の先で小さな輪をひろった。

すう……。

ほどく音がした。まるで、だれかが深く息を吐く音。


次に、別の輪。

すう……すう……。


ほどけるたび、糸がほんの少し光る。赤でも白でも黒でもない、朝の布みたいな淡い光だ。トックの指先が、その光で透けた。


チョッキンが近づいてきた。くちばしのハサミを、まだ閉じたまま。切る覚悟を、胸の奥にしまっている顔だ。


「もし、糸が縮みそうになったら」トックは言った。「チョッキン、おまえが切って、道を作ってくれ」


チョッキンは一度だけうなずいた。チキン、とは鳴らさない。いま鳴らすと、決意が音になってこぼれてしまいそうだった。


ミナは、トックの手元をじっと見ていた。結び目がほどけていくのは、こわいのに目が離せない。こわいものを見つめるとき、子どもの目は、まっすぐになる。


鏡の布が、白く光った。


規則の機械音が近づく。ピッ、ピッ、ピッ。白い部屋の冷たい膜が、鏡の縁からこちらへ伸びてくる。白は、きれいで、硬い。硬い白が、布世界のやわらかさを押しつぶそうとする。


その白に混じって、黒が滲んだ。

ヴォイドの黒。否認の暴走。


黒いモスが、縁に群がり、光を食べる。食べたところから穴が開く。穴は音を吸う。縫う音も、笑い声も、飲み込もうとする。


トックの胸がきゅっと鳴った。結び目をほどく指が、少し震えた。


「ミナ」トックは言った。「君は、こわい?」


ミナは唇をかんだ。頷きかけて、でも頷けない。こわい、と言ったら全部止まってしまいそうで。


「……こわい」ミナは、やっと言った。

その瞬間、糸が縮みかけた。


ほどけたはずの糸が、きゅっ、と自分で自分を締める。怖さは、糸を短くする。短い糸は、届かない。届かないと、もっとこわい。


ミナの手が冷たくなった。体温が一気に鏡の向こうへ引かれる。布世界の床が、紙みたいに薄くなる。観覧車のボタンが、カチ、カチ、と落ちそうな音を立てた。


トックはミナの手を強く握った。泣きは、手へ戻す。

「大丈夫」トックは言った。「こわいって言っていい。糸が縮んでも、また伸ばせる。縫い直せる」


でも黒は待ってくれない。縁の穴が、いまにも布世界の下へつながりそうだった。


チョッキンが、ついにくちばしを開いた。

チキン。

一度だけ、乾いた、覚悟の音。


「切るぞ」チョッキンは低く言った。「縮んだ糸の、いちばん痛いところを」


切る=編集。物語の余分な恐怖を削る。必要な痛みだけ残すために。


チョッキンが縮みかけた部分の黒い絡まりを切り落とすと、糸はふっと息をした。すう……。

トックの指がまた動く。ほどく、ほどく、ほどく。


黒いモスは舞った。摂理のモスも舞った。黒は否認で、白は規則で、赤は帰還で――その間に、指の温度が残った。


ミナは涙を落とした。トックの手の甲に、ぽとり。

トックはその涙を拭わなかった。涙も縫い糸になる。手の上で、世界はほどけるのをやめる。


結び目が、半分ほどけたときだった。


糸が、ふわりと宙に浮いた。

まるで、見えない指が糸の端を持ち上げたみたいに。


淡い光をまとった糸が、一本、また一本と引き出され、空中で線になる。線は、ただ漂うんじゃない。形を選び始めた。角ができ、段ができる。


「……階段だ」ミナが息をのんだ。


光る糸が、階段の形になり始める。下から上へ。布世界から、鏡の向こうへ向かう形。戻る道が、形を持つ。


ピッ、ピッ、ピッ。

機械音が、階段の上で待っている。


トックは、残った結び目にもう一度手をかけた。今度は、指が迷わない。


光の糸の階段が、もう一段、ふっと増えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る