第26話 トックの正体

鏡の布の前に、小さな屋台が出ていた。屋台といっても木じゃない。布の骨組みに、糸の提灯がぶら下がっている。提灯の中では、赤い糸がくるくる回って、ほどけるたびに光が増えた。帰還の赤の灯りだ。


チョッキンは屋台の札をくちばしでつついた。札には「反対側の味」と書いてある。


売られていたのは“枕雲スープ”。ふわふわの白い雲布を小さくちぎって、ミルク色のスープで煮る。口に入れると、最初はやさしい甘さで、あとから少しだけ塩が来る。泣いたあとに飲む味だ。


ミナは両手で器を持った。器も布でできていて、握ると少しへこむ。いつもならミナの体温で器がぽかぽかするのに、今日は白い温度が混ざっている。あの鏡の向こうの白が、ここまで薄い膜みたいに伸びてきていた。


「変だね」ミナが言った。「あったかいのに、遠い」


トックはうなずいた。遠い温かさは、戻る道の向こうにある。手を伸ばせば届く気がするのに、ガラス一枚で届かないみたいな。


鏡の布はゆらりと光って、さっき見えた枕元をまた映した。ボロボロのテディ。胸の縫い目の赤い光。赤は、呼ぶ。


縫う音、チク、チク。どこかで、世界が呼吸している。


トックは鏡の布の縁に座り、道具袋を開いた。中には針、糸、布、そして、小さな“結び目袋”がある。結び目袋は、修繕屋がいちばん大事にするものだ。結び目は、ほどけたものを「ここに戻す」ための約束だから。


ミナの周りの縫い線は、まだ少し歪んでいる。トックは糸を指に巻き、結び目を探す。ほどくときは、引っぱらない。待つ。糸が自分でほどけたがる瞬間がある。その瞬間を見つけて、そっとつまむ。


すう……すう……。


ほどく音は、眠りに落ちる前の呼吸に似ていた。


チョッキンがくちばしのハサミを鳴らした。チキン。チキン。黒い糸だけを切って、鏡の縁の黒ずみを短くする。切る=編集。余計な言葉を削るみたいに、余計な黒を削る。


トックは白い糸で縁を縫い直した。白は病院の白――硬い白が混ざっているから、針がきゅっと鳴る。でも布世界の白も混ぜる。雪の白、綿の白、枕雲の白。白を、白でやわらかくする。


縫う音、チク、チク。ハサミ音、チキン。二つの音が重なると、心臓の鼓動みたいに聞こえた。


ミナはその音を聞きながら、自分の手のひらを見つめた。手のひらには、小さな糸くずがいくつもついている。生きてきた証みたいに。


「ねえ、トック」ミナが言った。「トックの手、あったかいね」


トックは笑った。笑ったはずなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。縫い針が自分に刺さったみたいに。


鏡の布が、ふいに“はっきり”した。


白い部屋。硬い床。規則の機械音――ピッ、ピッ、ピッ。白い光は冷たいのに、そこにいるテディは、くたくたで、やわらかそうだった。ミナの枕元に寄り添って、片腕が少しだけ上がっている。抱くための形のまま、止まっている。


ミナの喉が鳴った。さっきのスープの白い甘さが、急に苦くなる。


「……ずっと、そこにいたの?」


言葉が布を通り抜けて、鏡に触れたみたいに震えた。


トックは鏡の中のテディを見た。胸の縫い目の赤い光が、トックの目の奥にも灯る。赤は帰還。赤は記憶の赤。


「ミナ」トックはゆっくり言った。「ぼくは、あの子の…」


“あの子”と言った。テディのことを、物みたいに言いたくなかったから。


トックは自分の胸に手を当てた。指先が布の縫い目を探る。そこに、確かに縫い線がある。いつもは服の縫い目だと思っていた線。けれど今日は、線が“身体”の線みたいに感じた。


「ぼくは、ミナの枕元のテディの――魂なんだ」


ミナの目が大きく開いた。子どもがびっくりするときの、まっすぐな目。怖いじゃなくて、信じられない、でも、うれしい、の目。


「テディが……歩いてるの?」


「歩いてるっていうより」チョッキンが首をかしげた。「縫われてる、だな」


トックはうなずいた。


「テディは、ミナの“戻る道”のそばにずっといた。抱かれて、汗を吸って、涙を受けて、ほどけそうになった夜も、切れそうになった朝も、ずっと一緒だった」


言いながら、トックは喉の奥がきゅっとなるのを感じた。大人の影は、説明すると逃げる。だから言いすぎない。けれど、音と温度が刺す。


ピッ、ピッ、ピッ。規則の音。

白い光。冷たい膜。

黒い縁から、じわりと滲む穴。


ヴォイド・モスが、鏡の縁に集まりはじめた。否認の暴走は、都合の悪い真実を食べて消そうとする。テディが魂だなんて、ありえない、と。ずっと一緒だなんて、痛い、と。


黒が、じわじわ増える。黒は音を吸う。縫う音が、少し小さくなった気がした。


ミナの頬に涙が浮かんだ。落ちそうで、落ちない。白い光に吸われそうになる。


トックは、ミナの手を取った。泣きは、手へ戻す。


「手、ここ」トックは言った。「ぼくはここにいる。ミナが握れるところに」


ミナはトックの指をぎゅっと握った。熱が、今度は少しだけ布へ戻った。ミナの言葉が、胸の奥から出てきた。


「……戻りたい」


小さな声。でも、はっきり。


「壊したいんじゃない。なくしたいんじゃない。……戻りたい。生きたい」


その言葉は、白い部屋の冷たい膜に小さな穴を開けた。穴は怖い。でも、穴は道になることもある。戻るための、息の穴。


その瞬間、鏡の縁が黒くひび割れた。


ヴォイドの黒が、布の表面を“にじ”として広がる。まるで、インクが紙にしみるみたいに。黒はモスたちの羽を巻き込み、摂理の虫を、暴走の虫へ引きずり込む。食べる、食べる、食べる。否認が、全部を平らにしようとする。


「来るぞ!」チョッキンが叫んだ。ハサミが開く。チキン、チキン、と激しく鳴った。


トックは針を持ち直し、白い糸を引いた。縫う音、チク、チク、チク。縫って、縫って、縫う。黒の境目を縫い止める。境目は、ここにある、と世界に言い聞かせる。


けれど黒は、縫い目の下からも湧く。穴は縫っても、穴の「欲しがる力」は残る。だからチョッキンが切る。黒い糸だけを、短くする。編集して、余白を作る。余白がないと、世界は息ができない。


ミナの手が震えた。体温が引っ張られる。戻る方向へ、今すぐにでも。けれど黒は、戻る道ごと食べようとする。消滅が迫る。白い光が、遠くでピッ、ピッ、ピッ、と律儀に鳴り続ける。まるで「間違えないで」と言うみたいに。


ミナはトックの手を離さなかった。泣きは、握る手に戻る。


「トック、いっしょに」ミナが言った。「いっしょに戻る」


トックの胸の赤い縫い目が、ふっと熱を持った。帰還の赤。


トックは、決めた顔をした。子どもが見てもわかる、怖いけど決める顔。


トックは自分の胸に手を当てた。


そこにある“結び目”に、指をかけた。


結び目袋の中でもいちばん大事な結び目。ほどけば、何かが変わる。ほどかなければ、何かが終わるかもしれない。


黒い縁がさらに滲む。機械音が、鏡の向こうでピッ、ピッ、ピッ、と鳴る。白い光が揺れ、赤い縫い目が脈打つ。


トックの指が、結び目をきゅっとつまんだ。

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