第25話 鏡の布:病院の白

布の町のはずれに、「鏡の布」という発明が吊るされていた。銀色の糸で織った一枚布で、風が吹くたびに、表と裏が入れ替わるみたいに光る。トックはそれを見上げて、縫い針を耳に当てた。――きょうは、縫う音より先に、別の音が来る。


カッ、カッ、カッ。


硬くて、乾いてて、やさしくない音。布世界の音はふつう、こすれる音とか、ふくらむ音とか、包む音なのに。


ミナは鏡の布の前で、両手を口元に寄せた。指先から湯気みたいな温かさが立つと、周りの布がふわりと膨らむ……はずだった。けれど今日は、温かさが「戻る方向」へ傾いている。熱が布へ広がらず、鏡の向こうへ、すうっと吸われていく感じがした。


チョッキンが羽を鳴らした。ハサミの鳥の羽音は、チキ、チキ、と小さく切る音に似ている。


「お腹、すいた?」トックは気をそらすように言って、ポケットから“綿あめパン”を出した。綿でできたパンに、いちご色の糸蜜をかけると、舌の上でふわっとほどける。ミナは一口かじった。甘いのに、どこか白い味がした。まるで、粉のように消えていく。


鏡の布の足元では、モスたちが静かに舞っていた。敵じゃない。布のほつれを食べ、世界の形を保つ摂理。けれど、その中に、影が混じる。黒い、黒い、ヴォイド・モス。否認が暴れて、食べることが止められなくなった虫たちが、鏡の縁をなぞるように集まっていた。


トックは作業台を広げた。台は布でできているのに、今日は触るとひやりとした。ミナの体温が、布へ残らない。布が「剥がれる」準備を始めているみたいだった。


「縫い目が歪んでる」


鏡の布のまわりに走る縫い線が、まっすぐじゃなくなっていた。トックは糸をほどく。ほどく音は、すう、すう、と細い呼吸みたい。結び目を探し、指でつまみ、少しずつ戻す。急げば布は怒る。引っぱれば裂ける。戻る道は、いつもゆっくりだ。


チョッキンは細い羽で鏡の端を押さえ、くちばしのハサミで、余計な糸を「チキン」と切った。切るのは壊すためじゃない。編集だ。迷子になった糸を短くして、道を見えるようにする。


トックは新しい白い糸を通した。白は、布世界では雪みたいにやわらかいはずなのに、今日は白が、硬い。針先が布に入るたび、キュッ、と小さな鳴き声がした。縫う音が、いつもより金属に近い。指の腹に、冷たい痛みが残る。


「ミナ、手を貸して」


ミナはうなずいて、トックの手元へ指を伸ばした。けれど指先が震えていた。熱が向こうへ行く。戻る方へ、引っ張られる。


トックはミナの手を包んだ。泣きそうな手を、縫う手に戻すために。


鏡の布に、布世界が映らなくなった。


代わりに現れたのは――白。


まぶしい白じゃない。消毒の白。壁の白。光るほどに冷たい白。そこに、硬い音が刺さる。カッ、カッ、という靴の音。カチャン、という金具。ピッ、ピッ、ピッ、と規則を守りすぎる機械音。


それは布世界の中では“異物”だった。絵本に貼られたガラス片みたいに、きれいで、危ない。


ミナの顔が白に染まっていく。鏡の向こうの白が、ミナの頬から血の色を盗むみたいに。トックは見てしまった。ミナのまつげの影が、いつもより黒く長い。まぶたが重くなる影。眠りが、深くなる影。


「……あそこ、だ」


ミナがつぶやいた。声が、布から離れていく。糸が切れそうな細さだった。


鏡の中には、ベッドの角が見えた。白い柵。白いシーツ。白い天井。白い天井に、四角い明かり。そこから落ちる光は、布の光みたいに温かくない。冷たいものを照らすための光だ。


ヴォイド・モスが増えた。黒い影が、鏡の縁から溢れて、縫い目に口をつける。否認が暴走すると、黒は「見ないため」に食べる。見たくない境目を消すために。けれど境目は、消せない。消そうとすれば、穴が開く。


ミナの喉が鳴った。風邪のときみたいに乾いた音。目がうるんで、でも涙は落ちず、白い光に吸われた。


「見ちゃ……だめ……でも、見なきゃ……」


ミナの体が小さく折れた。世界がきしんだ。鏡の布の縫い目が、ぐにゃりと歪む。布世界が引き剥がされる。まるで、古い包帯をはがすときみたいに、皮膚が引っぱられる感じ。痛いのに、止められない。


ピッ、ピッ、ピッ。


機械音が、布の中で鳴っている。規則の音が、逃げ道をふさぐ。


ヴォイド・モスが縫い目へ群がり、黒い穴が開きかけた。穴が開けば、布世界はほどける。ミナの足元の地面が、ふわりと薄くなった。落ちる。戻る道ではなく、ただ落ちる。


トックは針を落とさなかった。落としたら、戻れない。トックはミナの両手をぎゅっと握り、手のひらに縫い針の温度を移した。


「手、ここ。今、ここ」


泣きが、手へ戻る。


ミナの涙が一粒、トックの手の甲に落ちた。熱い涙じゃない。少し冷たくて、でも確かに生きている液体だった。トックはその濡れたところへ糸を当て、縫う。縫う音、チク、チク、チク。世界に「ここ」を打ち留める音。


チョッキンが飛び込んだ。羽のハサミで黒い糸だけを切り取る。チキン、チキン。切るたびに、黒が短くなる。否認の暴走を、編集する。穴のふちを、きれいな円にしない。円は落ちる道になる。ふちをギザギザにして、引っかかりを作る。戻るための指かけを作る。


トックは白い糸を結び直した。結ぶとき、指が痛い。痛いのは、まだ手がここにある証拠だ。結び目を締め、布を押さえ、ミナの指を一緒に添える。


ミナの体温が、ほんの少しだけ布へ戻った。鏡の白が薄くなった……ように見えた。その瞬間だけ、布世界の空気がふわっと綿みたいにやわらかくなった。


鏡の布は、まだ現実を映している。白い部屋。規則の機械音。硬い世界。


けれど、その片隅に、別のものが映った。


枕元に、ボロボロのテディ。


毛は擦れて、片耳は少しほつれて、何度も抱かれた跡がある。戻る道のしるしみたいな、古い布。トックの胸がきゅっとなった。そこに、彼の“魂の修繕”の仕事の答えがある。


テディの胸の縫い目が――赤く光った。


赤は帰還の色。赤は「戻る」の合図。鏡の中で、赤だけが白に負けずに脈打っていた。ピッ、ピッ、ピッ、の機械音に重なるように、赤が、静かに、呼んでいる。

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