第24話 糸車の守人

鏡の布が降りきると、扉の前が“舞台”みたいになった。


つるり、と光る布が壁になり、上から下まで白い光を返す。

その光は冷たい。

布世界の匂いを薄くする光。

でも、布の端だけはレースみたいにひらひらしていて、触るとまだ少しだけ温かい。


ミナはその端を指でつまんだ。

すると指先の体温が伝わり、布の白が、ほんの一瞬だけやわらかい白になる。

牛乳みたいな白。

病院の白とは違う白。

子どもが見れば、白いカーテン遊び。

大人が見れば、“境界を温める”動き。


そのとき、守人が一歩、前へ出た。


木の関節が小さく鳴る。

こく。

感情のない音。

でも、扉の呼吸は確かに続いている。


ふう……ふう……


守人は扉の前で止まり、糸車の形のハンドルを指さした。

その指先が、次に、トックの針を指す。

次に、ミナの胸を指す。

次に、チョッキンの刃を指す。


そして、守人は淡々と言った。


「扉(ほつれ)を縫い止めるには、糸が要る。

 最も強い想いが宿る糸が要る」


声は平ら。

怒りも、優しさも、ない。

でも“ルール”は嘘をつかない。

それが守人の怖さで、同時に救いでもある。


トックは自分の胸の包帯に触れた。

残り糸が少ない。

強い想いの糸――自分の糸は、確かに想いでできている。

けれど削れている。

削れているほど、強いのか。

それとも弱いのか。


チョッキンは刃を閉じた。

切るのは最後。

それを分かっている顔だ。


ミナは、赤い縫い目を見つめた。

赤は帰還。

帰還は、扉の向こう。

でも帰還は、この世界の終わりの方向でもある。


守人は続けた。


「塞ぐと、呼吸は一時止まる。

 止まれば、詰まる。

 詰まりは黒を招く。

 だが、塞がねば、裂け目は広がる」


善悪はない。

選ぶのは、彼ら。

守人は選ばない。

ただ手順を渡す。


「一。結ぶ。

 二。ほどく。

 三。縫い止める。

 四。切る」


その“切る”で、チョッキンの刃が小さく鳴った。


チキン。


決断の音が、鏡の白に反射する。


トックは針を握り直した。

手が震える。

震えは糸になる。

糸になると、ほどけにくい。

でも、震えは怖さでもある。

怖さで縫うと、締めすぎる。

締めすぎると、息ができない。


ミナが小さく、息を吐いた。

吐いた息が白く見えた気がして、ミナは慌てて両手で口を押さえた。

泣きの場面は手に戻る。

押さえることで、体温の揺れを止めたい。


しかし体温は揺れた。

揺れは止まらない。

扉の前は境界だから。


ミニ危機が始まった。


足元のフェルトが、すうっと薄くなる。

薄くなると、踏んだ感じが消える。

消えると、体が浮く。

浮くと、怖い。

怖いと体温が乱れる。

乱れると、さらに薄くなる。


ミナの足が、少しだけ沈んだ。

沈んだのに音がしない。

音を吸う黒が、すぐ近くにいる。


「ミナ!」


トックが呼びかけかけて、飲み込んだ。

叫ぶと縮む。

代わりに、トックは糸を引き出してミナの足元を縫い止めようとした。

でも縫い止めすぎると、扉の呼吸が止まる。

止まると詰まる。

詰まりは黒を呼ぶ。


手が止まる。

止まった手が、空中で迷う。


そのとき、守人が――たった一度だけ、違う動きをした。


守人は、ミナの手首にそっと触れた。

木の指が、冷たいはずなのに、触れ方がやさしい。

支える触れ方。

落ちないように、揺れないように。


守人はミナの手を、地面の“まだ残っている縁”へ導いた。

縁を掴む。

掴めば、落ちない。

掴むのは修繕の第一歩。

手で現実をつかむこと。


ミナはその導きに従い、縁をぎゅっと握った。

握った瞬間、体温が少し落ち着く。

落ち着くと、世界が少しだけ戻る。

布の手触りが戻る。


ミナの目が丸くなる。

守人は怖い。

でも、今の動きは――優しい。

優しいというより、必要な支え。

システムが、ほんの一瞬だけ人の手をしたみたいだった。


トックはその隙に、縫う。

縫い止めるのは最低限。

呼吸できる縫い止め。

ちょうどいい糸の張り。


すっ、すっ。


縫う音が、扉の呼吸に重なって、短い安心になる。

チョッキンは余分な布端を小さく切り、引きつりを逃がす。


チキン。


ミナは両手で縫い目を押さえ、体温で柔らかくする。

柔らかい縫い目は、世界を痛めない。


危機は一度、収まった。

足元が戻り、踏む感覚が戻る。

でも、ミナの胸の奥の白い規則音は、まだ消えない。


ピ、ピ、ピ……


守人はもう動かない。

さっきの一度きりの優しさが、逆に怖い。

あれは何だったのか。

なぜ、あの動作をしたのか。

答えはない。

手順だけがある。


守人は鏡の布を指さした。

鏡の布は、今度は“壁”ではなく“窓”になり始める。

白い光が、ただにじむだけじゃなく、形を持ってきた。


ベッドの形。

金属の柵。

白いシーツ。

そして、硬い音。


カタン。


ミナは息を止めそうになり、慌てて守人が支えた自分の手を思い出すように、両手を握りしめた。

手に戻る。

戻らないと、白に引きずられる。


鏡の布の白が、ゆっくり“映り”に変わっていく。

病院の白が、映り始める。


鏡の布が完全に広がり、そこに“病院の白”が形を持って映り始めた。硬い金属音が一拍、胸の奥の規則音と重なる――カタン、ピッ。扉の呼吸は続くのに、空のどこかで裂け目の音が返事をするように――ジッと走った。

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