第23話 扉の前の沈黙

塔の扉の前は、静かだった。


静か、というより――音が、選ばれている。

風は吹くのに、風の音がない。

黒い羽粉が舞うのに、羽音がない。

代わりに、扉の呼吸だけが聞こえる。


ふう……ふう……


扉は、布と金属と糸でできていた。

布は厚く、縫い目が幾重にも走り、金属の留め具がボタンみたいに並ぶ。

縫い目の糸は、ところどころ赤い。

赤は帰還の色。

赤い屋根の色。

その赤が、扉の周りで小さく脈打っているように見える。


子どもが見れば、大きな仕掛け扉。

秘密基地の入口みたいだ。

扉の脇には、糸車の形をした小さなハンドルがあり、回すと糸がきゅるきゅる出てきそうで、触りたくなる。


でもミナは触れなかった。

触れたら、何かが始まってしまう気がした。


扉の前には、のっぺらぼうの守人が立っていた。

マリオネット。

木の関節が、静かに揺れる。

顔はない。

目も口もない。

それなのに、こちらを見ている気配がする。


守人の手には、糸巻きがひとつ。

そして針が一本。

裁縫箱の底にあるような、古い針。


守人は、ゆっくり手を上げた。

指が、空中に線を描く。

線は言葉じゃない。

矢印でもない。

手順だ。


「一。結ぶ。

 二。ほどく。

 三。縫い止める。

 四。切る。」


声は平らだった。

怒りも、優しさも、ないように聞こえる。

善悪を言わない。

正しいとも、間違いとも言わない。

ただ、“やり方”だけを置いていく。


その不気味さに、ミナはぞくりとした。

でも同時に、胸のどこかが少し楽になった。


決めなくていい。

責められない。

誰かの気分じゃない。

手順は、同じようにそこにある。

それは、冷たいシステムじゃなくて――時々、救いにもなる。


ミナは小さく息を吐いた。

吐いた息が、白く見えた気がした。

白は境界の色。

扉の前は境界だ。


トックは守人を見て、針を握り直した。

胸の包帯の下で、綿がまた少し動く。

縫う音が恋しい。

縫えば安心する。

でも縫いすぎると、息ができなくなる。

第21話で学んだばかりのジレンマが、ここで喉元に戻ってくる。


チョッキンは刃を閉じたまま、守人の動きを観察している。

切るべき瞬間を、待っている目だ。


守人はもう一度、指で空をなぞった。

今度は扉の縫い目の赤を指すように。

赤い糸が、ここで必要だと告げているように。


ミナは赤い糸を見て、胸がきゅっとなる。

赤い屋根。

帰りたい。

でも帰ったら、この扉の向こうがどうなるのか、わからない。


そのとき、足元の布が――薄くなった。


ふわっと、透ける。

フェルトの地面が、レースみたいに軽くなる。

軽くなると、踏んだ感覚が消える。

消えると、怖い。

怖いと体温が乱れる。

乱れるとさらに薄くなる。


「ミナ、止まって」


トックが言いかけて、飲み込んだ。

叫ぶと縮む。

代わりにトックは、ミナの手を握る。


握る。

手の修繕。

泣きの場面は手に戻る。

ミナの指先は冷えていた。

冷えは、戻る方向の冷えだ。


ミニ危機が始まった。


ミナの足元が、すうっと消えかける。

落ちる先は“穴”じゃない。

縁のない欠け。

ヴォイドの気配が、扉の影にまで伸びている。


ミナは思わず、守人の方へ一歩踏み出した。

踏み出した瞬間、足場が薄くなり、ミナの体が傾く。


「っ……!」


ミナは声を上げそうになり、口を手で押さえた。

手に戻す。

押さえることで、体温の暴走を止める。


トックは針を投げるように刺した。

ミナの足元の縁へ。

縁が消える前に、縁を作るように。


すっ!


縫う音が、扉の前の沈黙に一本線を入れた。

糸が伸び、ミナの足元を縫い止める。

縫い止めると、落ちない。

でも縫い止めすぎると、地面が固くなる。

固くなると、扉の呼吸が止まる。

呼吸が止まると、詰まりが生まれる。

詰まりは黒が好きだ。


トックの手が震えた。

縫いたい。

もっと縫えば安全だ。

でも安全のために息を止めたら、別の危険が増える。


「……ちょうど、で」


トックは自分に言い聞かせた。

ちょうど。

呼吸できる縫い止め。


チョッキンが素早く動き、余分な布端を切り落とした。

縫い目が引きつらないように。

風の通り道を残すように。


チキン。


切る音は小さい。

でもこの場では、やけに鮮明に聞こえた。

音が吸われていない証拠。

まだ、世界は完全に黒に食われていない。


ミナは自分の手を、縫い止めた糸の上に置いた。

体温を乗せる。

糸が柔らかくなり、締まりすぎない。

柔らかい縫い目は、呼吸を許す。


「……ありがとう」


ミナは言った。

言葉は震えていたけれど、今度は縮みすぎなかった。

手が支えていたから。


守人は、その様子を見ても、何も変わらない。

褒めない。

責めない。

ただ、手順のまま。


その不気味さの奥に、ほんの少しだけ優しさがある。

優しさというより、偏りがない。

偏りがないことが、時々、救いになる。


守人が、扉のハンドル――糸車の形のハンドルを指さした。

そして、最後に一つだけ、動作をした。


守人はミナの肩に、そっと布の端切れを掛けた。

マントみたいに。

冷えないように。

顔がないのに、優しい手つきだった。


ミナの目が丸くなる。

怖いのに、安心する。

システムの顔が、時々だけ人みたいな手をする。

その揺れが、胸に刺さる。


その瞬間、扉の上から、何かが降りてきた。


さらり。

ひらり。


鏡の布。


レースでもフェルトでもない、つるりとした布が、カーテンみたいに降りる。

布の表面は、光を返す。

でもその光は、布世界の温かい光じゃない。


白い光が、にじむ。

硬い白。

病院の白。

境界の白。


遠くで心電図の規則音が、一拍だけ重なる。


ピッ。


扉の上から鏡の布がさらりと降り、表面に“白い光”がにじんだ。守人は手順だけを示したまま動かず、黒い羽粉が周囲の音を薄くしていく。鏡の布の向こうで、どこかの機械音が小さく鳴り――ピ――そして空が応えるように、裂け目の音が一度だけ――ジッと走った。

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