第22話 最果て:始まりの糸車へ

塔のふもとへ近づくほど、世界は“軽く”なった。


軽いのは楽じゃない。

軽いのは、手触りが消えていくことだ。

フェルトの地面が、薄い紙みたいになる。

匂いが遠くなる。

色が、布の裏側みたいに淡くなる。


でも、塔のまわりだけは不思議に濃かった。

ジッパーの歯がきらきら光り、金属パーツの柱が空に刺さっている。

ミシン針の街灯が並び、先端に小さな糸玉が灯りみたいに浮かぶ。

糸玉の灯りは甘い匂いがして、近づくと綿あめみたいにふわっと溶ける。

子どもが見れば、夜の遊園地みたいだ。


ミナはその糸玉を一つ、指でつついた。


「わ、あったかい……」


ミナの体温が触れたところだけ、糸玉の色が濃くなった。

赤、青、黄色。

その中に一つだけ、赤が強い糸玉があった。

赤い屋根の赤に似た赤。

ミナは思わず、それを両手で包んだ。


けれどその瞬間、遠くで音が消えた。


音のない黒――ヴォイドが、塔の足元を舐めるように広がっている。

羽音がない。

風の音さえ、途中で消える。

静けさが“重たい”静けさだ。

怖さが遅れて胸に落ちる静けさ。


「急ごう」


チョッキンが短く言った。

チキン。

刃が鳴り、決断の音が塔へ向かう道に一本線を引く。


最果ての道は、道じゃなかった。

布の橋が途中で途切れ、ボタンの足場が宙に浮き、ジッパーの裂け目が空中に走っている。

一歩間違えると、落ちる。

落ちる先は“穴”じゃない。

縁のない“欠け”。

そこへ落ちたら、音も匂いもなくなる。


三人は、息を合わせた。

この旅で初めて、手が言葉より先に揃う。

縫う、切る、温める。

そして結ぶ。


最初の崖は、ボタンの足場がぷつぷつ消え始めていた。

ミナが踏み出した瞬間、足元のボタンがふっと薄くなる。


「落ちる!」


ミナが叫びかけて、喉で止めた。

叫ぶと体温が乱れる。

乱れると世界が縮む。

縮むと消える。

ミナは咄嗟に両手で自分の腕を抱え、息を吐いた。

泣きの場面は手に戻る。

抱えることで体温を安定させる。


その一瞬の間に、トックが動いた。


トックは針を宙に投げるように刺した。

刺す先は、消えかけのボタン足場じゃない。

その少し外側の、まだ残っているフェルトの縁。

そして、糸を引く。


すっ!


縫う音が、空中に細く響いた。

トックの糸が一本、橋のように伸びる。

糸は細い。細いけれど、想いが宿ると太くなる。


チョッキンがその糸を見て、すぐ刃を入れた。


「切るんじゃない。……整える」


チョッキンは糸を切らない。

糸の周りの余分な布端だけを切って、糸が絡まらないようにする。

チキン、チキン。

切る音は短く、正確。

編集の音。


ミナはその糸に手を当てた。

体温が触れると、糸が少し柔らかくなり、伸びが増す。

柔らかい糸は、切れにくい。

それは“現実と布世界の接着剤”の力だ。


三人はその糸の上を渡った。

落ちる→縫い留める→切り離す。

この連携が、完成形に近づいている。


だが道はすぐ次の罠を出した。

宙に走るジッパーの裂け目が、勝手に閉じ始めたのだ。

閉じる音は本来ならジッと鳴る。

でもヴォイドの近くでは、その音が途中で消える。


……


音がない閉じ方は、怖い。

気づいたときには挟まれてしまう。


トックは糸を投げ、ジッパーの歯を縫い止めた。

閉じきらないように。

呼吸できる隙間を残して。

塞ぎすぎると詰まる。

詰まると黒が喜ぶ。

だから“ちょうど”で止める。


ミナはその隙間に手を差し入れ、体温で金属を少しだけ温めた。

温めると、ジッパーの動きが鈍る。

鈍ると、心が落ち着く。

落ち着くと、世界が縮まない。


チョッキンは最後に、ジッパーの横の古い布を切り、ショートカットの穴を作った。

穴は悪じゃない。

穴は呼吸。

ただし落ちないように整える。


チキン。


その穴をくぐり抜けた瞬間、背後で“無音の崩壊”が起きた。

ヴォイドが足場を消したのだ。

崩れる音はない。

音がないから、恐怖だけが残る。


ミニ危機が、本番の形で襲ってきた。


足元が、すうっと消えた。

三人は宙に投げ出される。

風があるのに風の音がしない。

落ちているのに落ちる音がしない。


ミナの心が揺れた。

揺れると体温が乱れる。

体温が乱れると、布世界が薄くなる。

薄くなると、塔も透ける。

透けた向こうに、白い光がちらつく。


病院の白。

硬い白。

機械の白。


ピ、ピ、ピ……


規則音が胸の奥から聞こえ、ミナは目を見開いた。


「いや……!」


ミナは泣きそうになって、両手を前に伸ばした。

何かを掴みたい。

掴まないと消える。

掴まないと戻る道が切れる。


トックが、ミナの手を掴んだ。

布の手。

温度はない。

でも、想いは糸になる。


「結ぶ!」


トックは叫ばず言った。

短く言う。

吸われない長さで言う。


トックは残り少ない糸を引き出し、ミナと自分の手首を結ぶ。

次に、チョッキンの足(爪)とも結ぶ。

三人が一本の“輪”になる。

輪になると、落ちても散らばらない。

散らばらなければ、修繕の手が届く。


チョッキンは宙で刃を開き、落ちる布端を切って“引っかかり”を作った。

切った布端が、宙に浮くボタンの列に引っかかる。

チキン!

その音は短く、痛いくらい鮮明だった。


トックはすかさず、その引っかかった布端を縫い止める。

縫うのは塞ぐためじゃない。

“落下を止めるため”の縫い止め。

すっ!

針が刺さり、糸が張る。


ミナはその糸に体温を乗せて、ほどけないようにする。

体温が触れると、糸が少し太く感じる。

想いが糸に宿る瞬間。


三人は、ぎりぎりで宙から戻った。

戻った、という言葉がまた胸を刺す。

戻る道。

戻る方向。

布世界から現実へ。

それが近い。


ミナは震えながら、トックの手を握り返した。

泣きは手に戻る。

握ることで、呼吸が戻る。


「……ごめん、揺れた」


ミナが言う。

トックは首を振った。

言葉より先に、縫い目の包帯を押さえる。

綿が、また少し出ている。

出ているのに、縫う糸はもう細い。


チョッキンが前を見た。


「見ろ」


塔の扉が、すぐそこにあった。

布と金属と糸でできた大きな扉。

扉は息をしている。

ふう……ふう……

呼吸の音がする。


そして扉の前に、のっぺらぼうの影が立っていた。


守人。

顔のないマリオネット。

手順を告げる“システムの顔”。


影は動かない。

待っている。

まるで、ここまで来るのを知っていたみたいに。


ミナの胸の奥で、白い規則音が一拍だけ強く鳴った。


ピッ。


糸車の塔の扉が目前に迫り、扉が“ふう、ふう”と呼吸している。扉の前には、のっぺらぼうの守人の影が静かに待っていた。黒い羽粉が背後から追い、音を吸う静けさが広がる中、空のどこかで裂け目が返事をするように――ジッと鳴った。

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