第21話 穴を守るより、呼吸させる

糸車の塔へ向かう道は、だんだん“まじめ”になっていった。


遊びの音が減る。

ボタンの音階も、屋台の呼び声も、遠のく。

代わりに聞こえるのは、布がきしむ音。

何かを我慢しているみたいな、細い音。


きゅ…きゅ…


ミナは胸を押さえた。

さっきから息がしづらい。

白い規則音が、遠くで鳴っている気がして、呼吸が乱れる。

乱れると体温が揺れる。

揺れると世界が薄くなる。

薄くなると、さらに息が苦しい。


「ここ……変だよ」


ミナが言った。

目の前の地面は、フェルトの大地のはずなのに、妙に固い。

縫い目がびっしり並んでいる。

同じ場所を何度も何度も縫った跡。

糸が重なって、地面が板みたいに硬くなっている。


チョッキンが翼をすぼめた。


「直しすぎだ」


トックは、その縫い目を見て、胸の奥がちくりとした。

見覚えがある縫い方。

自分の縫い方だ。

焦ったときの縫い方。

怖いときの縫い方。

“塞げ”と命令する声に従った縫い方。


そのとき、地面が――咳をした。


「けほっ」


本当に、そんな音がしたわけじゃない。

でも布が小さく震えて、綿の粉がふわっと舞った。

舞った粉が、鼻の奥にくすぐったくて、ミナは笑ってしまう。


「布が、咳してる」


子どもが見れば、可愛い。

大人が見れば、息ができない場所の比喩だとわかる。


トックは膝をつき、縫い目に指を当てた。

糸がきつく締まりすぎている。

締まりすぎた結び目は、呼吸を止める。

呼吸が止まると、世界は“循環”じゃなく“詰まり”になる。

詰まりは、黒が好きだ。

詰まりは、否認に似ている。

「動かないように固める」ことで安心しようとするから。


トックは針を取り出した。

縫い直せばいい、と手が勝手に動きかける。

でも、その瞬間、胸の縫い目がちくりと刺した。


――直す=善じゃない。


賢者の言葉が、手のひらに戻ってくる。

ほつれは世界の呼吸。

穴は悪じゃない。

塞ぎすぎると、世界が息をできなくなる。


トックは針を止めた。

代わりに、自分の糸を少しだけ引き出し、縫い目の上に“ゆるい輪”を作った。

縫うのではなく、結ぶ。

締めつけない結び目。

呼吸できる結び目。


くる、くる。


糸が輪になる音は、縫う音よりも柔らかい。

柔らかい音は、焦りをほどく。


ミナはその輪に手を当てた。

体温が触れると、固かった糸が少しだけ柔らかくなる。

柔らかくなると、地面の匂いが戻る。

フェルトの森の朝の匂い――クッションパンの匂い――が、ほんの少し。


「戻ってきた」


ミナが小さく言う。

戻る、という言葉はここでは危うい。

布世界が薄くなる“戻る”と、息が戻る“戻る”。

二つが混ざって、胸がきゅっとなる。


そのとき、縫い目の列が一斉に引きつった。


ぎゅうっ


音が鳴った。

嫌な音。

糸が我慢の限界で鳴く音。


ミニ危機が始まった。


固めすぎた縫い目が、逆に裂けようとしている。

一ヶ所が引きつると、隣も引きつる。

それが連鎖して、地面全体がきしみ始めた。


きゅ…きゅ…きゅ…!


布が苦しくて、咳をするどころじゃない。

息ができないまま暴れ始める。


ミナの体温が乱れた。

怖い。

怖いと糸が縮む。

縮むと縫い目はさらに締まり、さらに息ができない。


「ごめん……!」


ミナが言って、両手で自分の胸を押さえた。

泣きの場面は手に戻る。

押さえることで、自分の熱を落ち着かせる。

落ち着け、落ち着け、と手のひらが言う。


トックは歯を食いしばった。

塞ぎたくなる。

縫い足したくなる。

でもそれは油を注ぐことだ。

縫い足せば足すほど、詰まりは増える。


「切る」


チョッキンが前に出た。

刃が開く。

チキン。

決断の音が、きしみの中に一本の線を入れる。


チョッキンは縫い目の列の端を、真っすぐに切らない。

波の形に切る。

波にすると、引きつりが散る。

風の通り道ができる。


チキン、チキン。


切る=破壊じゃない。

切る=風を通す編集だ。


トックは、その切り口が裂けないように、すぐに端を縫い止める。

縫い止めるのは塞ぐためじゃない。

“裂け目にならないように整える”ためだ。


すっ、すっ。


ミナは切られた通り道に手を当て、体温で布を柔らかくする。

柔らかくなると、風が通る。

風が通ると、布が息を吸う。


不思議なことが起きた。

固かった地面が、少しふわっとした。

きしみが弱くなる。

咳みたいな震えが、落ち着いていく。


「……息してる」


ミナが言った。

その言葉は、今度は怖くない。

息は、循環だ。

止めるのが怖い。


トックは、自分の縫い跡を見つめた。

善意で塞いだ。

守るために塞いだ。

でも守り方を間違えると、息を止めてしまう。


大人が読むと、善意の暴走の話。

子どもが読むと、布が苦しくて咳をする可愛い話。

同じ場面が、二つの層で刺さる。


そしてトックは、初めて自分に言い聞かせるように呟いた。


「守るって……塞ぐことじゃないんだな」


チョッキンが短く頷いた。

ミナは、まだ震える手で、切り口の端をぎゅっと握った。

握ると、温度が安定する。

握ると、泣きが落ち着く。


そのとき、風が通り道を抜けて、遠くから変な音を運んできた。


ふう……ふう……


それは風の音に似ている。

でも風より規則的だ。

まるで扉が呼吸しているみたいな音。


ミナが顔を上げる。

トックも、チョッキンも、同じ方向を見る。


遠く、糸車の塔のふもと。

そこに、のっぺらぼうの影が立っていた。

守人。

顔のないマリオネットが、こちらへ向かって、ゆっくり手を上げた。


指は、道ではなく、手順を示すみたいに動いた。

“次はこう”と、淡々と。


その背後で、塔の扉が、息をしている。


ふう……ふう……


守人の影が遠くで手順を示し、塔の扉から“呼吸の音”が聞こえる。黒い羽粉が風の道に沿って流れ、白い規則音が一拍だけ重なる――ピッ。そして縫う音よりも大きく、扉の向こうから――ジッという裂け目の気配が返事をした。

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