第20話 トックの摩耗
洞穴を出ると、空は低かった。
黒い羽粉が帯になって流れ、雲の綿あめが薄く引きちぎられている。
それでも、地面にはまだ遊びが残っていた。
ジッパーの歯が並ぶ坂道を滑ると、カチカチと音が鳴って、まるで小さな汽車みたいに進める。
ミナは一度だけ、その坂をお尻で滑った。
「きゃっ!」
笑い声は短く弾んだ。
子どもが見れば、可笑しい。
大人が見れば、“笑いが息継ぎ”になっているのがわかる。
息継ぎをしないと、黒い静けさに飲まれそうだから。
坂の終わりに、布ネズミの屋台がまた流れ着いていて、今度は「縫い目ソフト」を売っていた。
白い綿のソフトクリームに、赤い糸がくるくる巻いてある。
ミナはそれを受け取り、舌でなぞった。
甘い。
でも、その甘さの奥に、少しだけ“硬い白”が混ざった気がして、ミナは眉を寄せた。
心電図の規則音が、遠くで一拍だけ跳ねる。
ピ……
トックは何も言わず、ミナが溶けないうちに食べるのを見守った。
見守る手は、縫う手と同じくらい大事だ。
でも今日のトックは、歩き方が少しおかしかった。
肩が落ちている。
背中の縫い目が歪んでいる。
左腕の無い側の断面の黒は、まだ消えない。
そして――胸のあたりから、小さな白いものがはみ出していた。
「トック、それ……」
ミナが指差すと、トックは慌てて胸を押さえた。
押さえた手の隙間から、ふわりと綿が出る。
綿は雪みたいで、軽いのに、見ていると胸が重くなる。
「だいじょうぶ。ちょっと、ほどけただけ」
トックは笑おうとした。
でも笑いは布みたいに薄くて、すぐ裂けそうだった。
チョッキンが近づき、刃を閉じたまま言う。
「ほどけただけじゃない。摩耗だ。お前、糸が足りてない」
トックは返事をしない。
返事をすると、何かが“決まってしまう”気がしたから。
三人は、風の当たらないレースの壁際に身を寄せた。
そこには、古いリボンが垂れ下がっていて、即席のカーテンになる。
ミナはそのリボンを両手で押さえ、体温で少し柔らかくして、結び目を作った。
結び目がきゅっと締まる。
呼吸できる結び目。
手で整えると、心も少し整う。
トックは自分の体を見下ろした。
腹の縫い目が、ほつれている。
背中の布が薄い。
綿が出る。
出るたびに、自分が軽くなる。
軽くなるのに、怖い。
軽くなるのは、空っぽに近づく感じがするから。
「直さなきゃ」
トックが、癖みたいに言った。
でもその声は、さっきの縫い目ソフトよりも溶けやすい。
トックは針を取り出し、自分の胸の裂け目を縫い始めた。
でも――糸が短い。
いつもなら、糸は体の中から引き出せた。
引き出すたびに身が削れた。
それでも引き出せた。
でも今日は、引き出すと“痛い”より先に、“空っぽ”が来る。
トックは迷って、糸を少しだけ引いた。
そしてその糸で、胸の裂け目を縫い止める。
すっ、すっ。
縫う音はまだ鳴る。
鳴るけれど、細い。
細い音は、弱い命綱みたいだ。
足りない糸を補うために、トックは自分の体に“包帯”みたいに糸を巻いた。
巻く。結ぶ。
裂け目が広がらないように、綿が出ないように。
ぎゅっと巻きすぎると、息ができない。
ゆるすぎると、ほどける。
ちょうどよく、呼吸の余白を残して巻く。
チョッキンは、近くに落ちていたレースの端切れを切り取り、包帯の上から当ててくれた。
切る=編集。
布を補う編集。
ミナはその上から手を当てた。
体温で布が馴染む。
布が馴染むと、縫い目が落ち着く。
ミナの温度は、修繕の手伝いになる。
でも、同時に、ミナの温度は“戻る方向”の温度でもある。
ミナの胸の奥で、白い音がまた鳴った。
今度は、遠くじゃない。
近い。
耳じゃなく、胸の内側から。
ピ、ピ、ピ……
ミナは息を止めかけて、慌てて吐いた。
吐いた息が、白く見えた気がした。
白は境界の色。
ミナが“戻る方向”へ引かれている。
その瞬間、周りの布世界が少し薄くなった。
レースの壁が透ける。
ボタンの石が影になる。
匂いが遠のく。
手触りが軽くなる。
「……ねえ」
ミナが言った。
声は震えている。
震えは糸になる。
糸になると、ほどけにくい。
「私が……帰らなければ」
その言葉を言うだけで、ミナの喉が痛くなる。
言ったら、トックが消えるみたいで。
言ったら、世界が終わるみたいで。
ミナは両手で自分の口元を押さえた。
泣きの場面は手に戻る。
押さえた手の中で、声が布みたいにくしゃくしゃになる。
でも言葉は出た。
「私が帰らなければ……トック、助かるの?」
核心だった。
糸の結び目みたいに、避けていたところ。
大人が読むと、依存の問い。
子どもが読むと、友だちを失いたくない問い。
トックは、針を持ったまま固まった。
言えない。
言ったら、ミナが罪悪感で縮む。
縮んだら、世界が歪む。
歪んだら、ヴォイドが増える。
そして何より、言ったら、トック自身が“選ばせる側”になる。
トックの強迫が叫ぶ。
直さなきゃ。守らなきゃ。
ミナをここに留めなきゃ。
帰らせたくない。
でもそれは利他の顔をしているだけで、本当は怖さだ。
その怖さの奥に、モノクロ雨の記憶がある。
「さようなら」が刺さる痛みがある。
もう二度と刺されたくない痛み。
トックは口を開いた。
でも言葉は出ない。
出ない代わりに、手が動いた。
トックはミナの手を握った。
握る手は、縫う手よりも正直だ。
ミナの手は温かい。
温かいのに、その温かさが少しずつ遠ざかる気配がある。
チョッキンが、横で小さく刃を鳴らした。
チキン。
決断の音。
決断しろ、と世界が言っているみたいだった。
そのとき、地面の先が、すうっと欠けた。
ヴォイドの消滅穴だ。
縁がない欠け。
縫えない欠け。
音がない黒が、静かに広がっている。
ミニ危機が来た。
立ち止まると落ちる。
落ちる音はしない。
しないからこそ、怖さだけが残る。
「行くよ!」
チョッキンが先に飛び、刃で“危ない場所”の布を切り離して道を作る。
トックはその道の端を縫い止め、崩れが連鎖しないようにする。
ミナは体温で布を柔らかくし、滑りやすくする。
三人は、結んだ糸のまま走る。
結ぶことが、生き延びる修繕になる。
走りながら、ミナは何度もトックを見る。
トックの包帯の下から、また綿が少し出た。
白い綿。
白は病院の白に似ている。
でもこの白は温かい。
温かい白と、冷たい白。
二つの白が混ざると、ミナの胸が痛む。
そして――遠くに見えた。
糸の塔。
空へ向かって、螺旋のように伸びる塔。
てっぺんで、糸車が回っているのが見える。
回っているのに、音がしない。
黒が近い証拠だ。
塔の入口のあたりで、何かが揺れた。
のっぺらぼうの影。
顔のないマリオネット。
守人。
ミナは息を止めた。
トックの胸の縫い目が、ちくりと痛んだ。
遠くに糸車の塔が見え、回る影が空を切るように揺れる。塔の前で、のっぺらぼうの影がこちらを向いた気がした。黒い羽粉が帯になって追いかけ、白い規則音が一拍だけ鋭く鳴る――ピッ。そして空のどこかで裂け目が、次の手順を告げるように――ジッと鳴った。
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