第19話 チョッキンの過去

赤い糸みたいな“残り”を辿って歩くと、道はだんだん硬くなっていった。


フェルトの砂が減り、金属の破片が増える。

ボタンの石の代わりに、錆びたネジがころころ転がる。

風が吹くたび、どこかでキィ…と嫌な音がする。

それでも、子どもが見れば面白い場所でもあった。

地面から飛び出したジッパーの歯が、階段みたいに並び、登るとカチカチと音が鳴る。

綿の草の間には、ファスナー海苔巻きの屋台が流れついていて、店主の布ネズミが「今日は黒ごま味だよ」と笑った。


ミナは海苔巻きを受け取り、ひと口噛んだ。

パリッ、ではなく、ザクッと布が裂けるみたいな食感。

笑ってしまう。

笑うと、ほんの少しだけ世界の色が戻る。


でもチョッキンは、笑わなかった。


チョッキンの翼――刃の根元が、ぎしぎし鳴っている。

刃の縁に、茶色い錆が浮いていた。

黒い羽粉が降り始めてから、錆が増えた気がする。

錆は湿気じゃなく、心につく。

言えなかった言葉が、金属に残る。


「……痛いのか?」


トックが訊くと、チョッキンは首を振った。

でもその動きが、いつもより遅い。


「痛いんじゃない。……重い」


重い、という言葉は、布世界では本当の重さじゃない。

想いの重さだ。

罪の重さだ。


三人は、レースの布が垂れた小さな洞穴に入った。

洞穴の天井はジッパーで閉じられ、外の黒い羽粉を少しだけ防いでくれる。

中には綿の水たまりがあり、そこにボタンが浮いて、ゆらゆら揺れている。

ミナが指でつつくと、ボタンがぽんと跳ねて、鈴みたいな音を鳴らした。


ぽん。


音が鳴った。

まだ、音が残っている。

ミナはほっとした。


トックは洞穴の隅で、小さな修繕を始めた。

赤い糸の“残り”がほどけないように、結び目を作る。

結び目を締めすぎない。呼吸できる結び目。


すっ、すっ。

針が布を抜ける音。

安心の音。


その音が、チョッキンの胸の蓋を少しだけ緩めた。


チョッキンは、ゆっくり刃を広げた。

刃の縁が、洞穴の薄い光を反射する。

反射した光は、白じゃなく、鈍い銀。

病院の白とは違う。でも、白に近い気配が混ざっている。


「……言わなきゃいけないことがある」


ミナが顔を上げる。

トックも手を止めた。

止めるのは怖い。けれど、止めて聞く修繕もある。


チョッキンは、自分の刃の根元を見つめた。


「俺は……ここで生まれたんじゃない」


洞穴の空気が、少し冷たくなる。

黒い羽粉のせいじゃない。

言葉のせいだ。


「俺は……ミナの家の、ハサミだった」


ミナの指先が、ぴくりと震えた。

体温が揺れそうになる。

ミナはすぐに両手で自分の膝を押さえた。

泣きの場面は手に戻る。

押さえることで、熱が暴れないようにする。


「……嘘」


ミナの声は小さかった。

でも洞穴の中では、よく響いた。


チョッキンは首を振る。

錆が、きしりと鳴る。


「嘘じゃない。あの家の机の上にいた。赤い屋根の下で」


赤い屋根。

その言葉が、洞穴の中に赤い点を灯したように感じた。

ミナの胸が、きゅっとなる。


「俺は、切った」


チョッキンは続ける。

言葉が、刃みたいに痛い。


「お前の……大切なぬいぐるみを」


ミナの目に涙が溜まった。

涙は落ちない。落ちたら、音が吸われそうで怖い。

でも涙は溜まる。溜まる涙は、詰まりになる。


ミナは息を吸って、吐いた。

境目でひっかかった呼吸。

吐く息が、少し白くなる。

白は境界の色。


「……あれは、私が抱いて寝る子だった」


ミナの声は、布みたいに薄い。

薄いけれど、本物だ。


「ほつれたところを、ママが直そうとして……私が急いで……」


言葉が途中で止まる。

止まるのは、思い出しすぎると白い音が刺さるから。

機械音が、耳の奥で遠くに鳴った気がして、ミナは肩をすくめた。


チョッキンの刃が震える。


「俺は、机から落ちた。……落ちたとき、刃が開いて……」


チョッキンは自分の刃を見つめる。

刃は真っすぐで、きれいで、だからこそ残酷に見える。


「切りたくなかった。でも切った。傷ができた。俺は、あの傷を見て、怖くなった。『壊すためのハサミだ』って、言い訳した」


言い訳は、錆になる。

言えなかったごめんは、金属の奥で固まる。

固まると、刃が重くなる。


ミナは唇を噛んだ。

噛むと、言葉が出ない。

出ない言葉は、胸の中で暴れる。


「……私が悪いの?」


ミナの体温が揺れた。

洞穴の壁のレースが、きゅっと縮む。

世界が縮む。縮むと息ができない。


ミニ危機は、ここで起きた。

外の黒が、洞穴のジッパーの隙間から、すうっと入り込もうとしている。

音のない黒。

ヴォイド・モスの気配が、近づいている。

追いつかれると、今度は“消える”。


トックはすぐに針を取り、ジッパーの隙間を縫い止めた。

塞ぐのではない。

呼吸できるように、最小の縫い止め。

裂け目にならない程度の縫い止め。


すっ、すっ。


チョッキンは、洞穴の入り口に立った。

刃を開く。

チキン。

決断の音。

でも今のチョッキンの目は、さっきまでの拗ねた目じゃない。


「俺が……切る」


その言葉は、初めて自分の役割を肯定した言葉だった。

切る=破壊じゃない。

切る=編集。

危険を切り離し、守る形を作る。


チョッキンは洞穴の入口に垂れた古い布を、必要な分だけ切って、外の黒い羽粉を払い落とした。

黒が入り込む“道”だけを断つ。

切りすぎない。

世界の呼吸は残す。


ミナはその姿を見て、胸の中の詰まりが少しだけ動いた。

詰まりが動くと、涙が一滴こぼれそうになる。


トックが、ミナの方を向いた。

そして、やさしく言った。


「その傷で……もっと愛されたかもしれない」


ミナが顔を上げる。

驚いた目。怒りと、戸惑いと、痛み。


トックは続ける。

説教じゃない。

比喩でもなく、手仕事の言葉。


「ほら、直した跡って、そこに『大事だった』って書いてあるみたいだろ? 傷があると、抱く場所を覚える。縫い目があると、手が戻る」


ミナの手が、自分の胸に触れた。

そこに、あのぬいぐるみの縫い目を思い出す。

赤い糸で直した場所。

そこを触ると、安心した。

傷が“印”になっていた。


「……でも、切られたのは、痛かった」


ミナの声が震える。

震える声は、糸になる。

糸になると、ほどけない。


「うん。痛かった」


トックは否定しない。

否定しないことが、赦しの始まりだ。


そのとき、ミナの涙が一滴、落ちた。


涙はチョッキンの刃に落ちた。


ぽとん、と音がした。

小さい音。

でも洞穴の中で、よく響いた。

音が吸われない場所で、涙が音になった。


涙が刃を濡らし、錆の上を流れる。

錆が、ほんの少しだけほどけた。

ほどける音は、縫う音と似ている。


すっ……


チョッキンは目を閉じた。

そして、初めて、きちんと謝った。


「……ごめん」


謝罪は、錆を落とす水みたいだった。

水は全部は落とさない。

でも、動くようにする。

動けるようにする。


外で、音のない黒が動いた。

ヴォイドが、洞穴の外側の地面を少しずつ薄くしている。

追いつかれる。

ここで立ち止まれない。


チョッキンは刃を握り直した。

重さが少し軽い。

軽いのは、罪が消えたからじゃない。

罪を“抱えたまま動ける”ようになったからだ。


その瞬間、刃の先が、涙で濡れたまま光った。


赤く。


ほんの一瞬だけ。

赤い屋根の赤みたいに。


チョッキンの刃が涙をまとい、一拍だけ赤く光る。洞穴の外で音のない黒が広がり、地面が静かに“無”へ落ち始める。遠くで機械音の残響が跳ね、裂け目が次の場所を指さすように――ジッと鳴った。

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