第18話 消えたボタンの穴

ボタン砂漠に戻ってきたとき、ミナは思わず声を上げた。


「わあ……!」


本当なら、ここは眩しい。

踏むとド・レ・ミと音階が鳴るボタンの地面。

風が吹くたび、砂の代わりに小さなボタンがころころ転がって、カラカラ楽器みたいに鳴る。

遠くには、ボタン飴の屋台が立っていて、飴の表面がきらきら光っているはずだった。


でも今日は――音がしなかった。


ミナが足を置いても、音階が鳴らない。

ボタンはそこにあるのに、音が抜け落ちている。

砂漠の甘い匂いも、いつもより薄い。

色はまだ鮮やかなのに、手触りだけが“遠い”。


チョッキンが羽をすぼめる。


「……無音だ。ヴォイドが通った跡だな」


トックは黙って頷いた。

縫う音が、ここでは自分の耳にも遠い。

遠い音は、心を不安にする。

心が不安になると、世界が縮む。

縮むと、さらに音が遠くなる。

悪い循環が、ここにできている。


それでも、砂漠はまだ“甘い景色”の形を保っていた。

ボタンの丘が波みたいにうねり、陽の光を反射して、虹色に光る。

ミナは思わず、指先でボタンを一つ拾った。


つるり。

ひんやり。

そして、ミナの体温で、ほんの少し温かくなる。

温かくなると、そこだけ匂いが戻る。

飴みたいな甘い匂いが、ふっと立った。


「まだ……残ってる」


ミナはそのボタンを、そっと耳に当てた。

音はしない。でも、胸の奥で“思い出の音”が鳴る気がした。


トックは、砂の中に埋もれていた“想い出のボタン”を探した。

あの、覗くと温かい記憶が映るボタン。

終盤でミナを帰還へ押し出すはずの糸の核。


「ここだ」


トックが見つけたボタンは、いつもより冷たかった。

覗き込むと、映像が揺れる。

映像の端が、黒く滲んでいる。


ミナが覗くと、母の手元の記憶が映った。

柔らかい手。

布を直す手。

針が布を抜ける音。

あの音は、安心の音。


――でも、その記憶の端で、何かが欠けている。

欠けているのに穴じゃない。

縁がない。

縫えない欠け。


ミナの喉がぎゅっとなる。


「……やだ」


言った瞬間、砂漠の奥の方で、ふっと何かが消えた。


ボタンの丘が、すうっと薄くなった。

薄くなる、じゃない。

“無かったこと”になる。


崩れる音がしない。

崩れるのに、静か。

静かすぎて、心が追いつかない。


ミナは走り出した。

子どもなら、宝物が消える前に拾いたくなる。

大人なら、思い出が消える前に抱きしめたくなる。

どちらも同じ衝動だ。

失う前に、手で確かめたい。


ミナはボタン丘の縁に辿り着いた。

そこには“穴”があった。

でも穴じゃない。

穴の縁が、ない。


「消えたボタンの穴……」


ミナが呟く。

穴の中は黒い。

黒いのに、深さがわからない。

音が吸い込まれる黒。

ヴォイドの黒。


ミナの胸の奥で、ふっと、怖い考えが芽を出した。


――消えちゃえば、楽なのかな。


痛い記憶も、怖い音も、責められる言葉も。

全部、無かったことになったら。

胸の中が軽くなるんじゃないか。

泣かなくて済むんじゃないか。


その考えは、甘い。

砂漠の飴みたいに。

甘いほど危ない。


ミナは自分でその考えに震えた。


「やだ……私、今……」


ミナは両手で自分の口を押さえた。

泣きの場面は手に戻る。

押さえることで、言葉が黒にならないようにする。

押さえることで、否認が出てこないようにする。


トックがミナの肩に手を置いた。

布の手。

温度はない。でも想いの重みはある。


「その“消したい”って気持ちも、本物だよ」


トックは言った。

否定しない。

否定すると、黒が増える。


「でも、消すのは……循環じゃない」


チョッキンが短く付け足す。

刃がチキンと鳴り、決断の音が砂漠に刺さる。

刺さるけれど、吸われない。

まだここには、素材がある。


そのとき――

砂漠の空に、一瞬、赤い影が映った。


赤い屋根。


あの影が、ボタンの表面にちらりと走った。

走った瞬間、黒い羽粉がそれに絡みつく。

赤が黒に食われかける。

赤い糸が、黒い糸に巻き取られるみたいに。


ミナの体温が乱れた。

乱れると世界が縮む。

縮むと砂漠がきしむ。

音階のないボタンが、さらに黙る。


ミニ危機が来た。


砂漠が“無音の崩壊”を始める。

ボタン丘が、次々に消える。

消える前に、空気が冷たくなる。

匂いが消える。

手触りが消える。

そして、無。


ミナは赤い影に手を伸ばした。

伸ばした手が震える。

震えは糸の縮みになる。

縮みは崩壊を早める。


「ミナ、止まって!」


トックが叫びそうになって、ぐっと飲み込む。

叫ぶと縮む。

代わりにトックは、針を取り出した。


――でも、縫わない。


トックは砂漠の縁に、針を刺さずに置いた。

針を置く。

それは「塞がない」選択だった。


「……呼吸させる」


トックは小さく言った。

賢者の言葉が、ここで実践になる。


穴は悪じゃない。

塞ぎすぎると、詰まる。

詰まると、黒が増える。

だから、穴を“穴のまま”扱う。

ただし、落ちないように整える。


トックは糸を引き出し、消えた穴の縁――縁がないはずの場所――の周りに、円を描くように結び目を作った。

縫って閉じるのではなく、結んで“境界”を作る。

境界ができると、無が広がりにくくなる。

呼吸の穴として留める。


チョッキンはその円の外側を、素早く切って砂をならす。

崩れる部分を切り離し、崩れない道を作る。

切る=編集。

崩壊の連鎖を断つ。


ミナは自分の両手を、円の糸の上にそっと置いた。

体温が触れると糸が少し柔らかくなり、結び目が締まりすぎず、ほどけすぎず、呼吸できる形になる。


砂漠の崩壊は止まらない。

でも、止めるのが目的じゃない。

“消滅”に飲まれないように、呼吸の形を守る。

その違いが、トックの手の中でやっとわかる。


赤い屋根の影は、黒に食われかけた。

けれど――完全には消えなかった。


黒の中に、細い赤が残った。

糸みたいに細い。

でも糸なら、引ける。

繋げる。

縫い直しの始まりになる。


ミナはその赤を見て、涙を一粒こぼした。

涙は砂漠のボタンに落ち、音にならずに、温度だけ残した。

泣きの場面は手に戻る。

ミナはその涙の落ちた場所を指で押さえ、赤い糸の気配を確かめる。


崩れた黒の縁に、細い赤が一本だけ残り、風に揺れて糸のように光った。赤は次へ続く“縫い糸”の合図みたいに伸び、遠くで白い規則音の残響が不規則に跳ねた。黒い羽粉がそれを追いかけるように舞い、次の場所へ向かう道が、ぎりぎり残った。

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