第17話 黒い糸の侵食

黒い羽粉が降った次の日、朝が来たのに、朝の匂いがしなかった。


いつもならフェルトの森の朝は、クッションパンの焼ける匂いがする。

綿あめ雲が甘くて、ボタンの露がきらきらして、鳥みたいな布の虫がぴいっと鳴く。

それが今日は、どれも薄い。

布を一枚かぶせたみたいに、世界の色がぼんやりしている。


チョッキンが地面をつついた。


「音が、落ちてる」


ミナが耳を澄ませる。

風が吹いているはずなのに、風の音が遠い。

縫う音も、近くで鳴っているのに、なぜか届きにくい。


トックは、胸の縫い目を押さえた。

ちくり、とした。

白い棘を抜いたときの指先の匂い――薄くなる匂い――が、まだ残っている。


三人は丘を越えた。

すると、目の前の景色が、ふっと“欠けて”いた。


欠けているのに、穴じゃない。

穴なら縁がある。縁があれば、縫える。

でも目の前の欠けは、縁がない。

縁がないから、布の端もない。

布が切れたというより、そこだけ“最初から無かった”みたいに見える。


ミナが息を飲んだ。


「……ここ、何があったの?」


トックは答えられなかった。

答える言葉が、音になって消えそうだった。


欠けの向こうから、黒いものが舞った。

黒い羽粉よりも細かい、黒い粉。

でも粉じゃない。

それは羽の影みたいに、ふわっと形を変える。


そして現れた。


ヴォイド・モス。


星食い虫に似ている。

羽の形も、ふくらみも、あの“掃除屋”と同じように見える。

だからこそ怖い。

同じ姿をしているのに、違う匂いがする。


普通のモスは、食べても素材を残す。

穴が開いても、周りに布が残る。

縫えば戻る余地がある。

怖いけれど、循環だ。


でもヴォイド・モスの羽ばたきは――音がしない。


羽が動くのに、羽音がない。

むしろ、周りの音が吸い込まれていく。

音が、穴に落ちる。


ミナは思わず一歩下がった。

そのとき、足元の小さなボタン石が、ぽとりと欠けの方へ転がった。


転がったはずなのに、音がしない。

そして次の瞬間、ボタン石が消えた。


消え方が、怖かった。

砕けて粉になるんじゃない。

布の下に落ちるんじゃない。

“消える”のだ。

素材を残さず、匂いも残さず、音も残さず。


ミナの喉が小さく鳴った。

その喉の音さえ、吸われそうになる。


「……縫える?」


ミナがトックを見る。

トックは針を握っているのに、手が動かない。

それは初めてのことだった。


トックの中の強迫が、いつもなら叫ぶ。


直さなきゃ。塞がなきゃ。守らなきゃ。


でも今、その声が一瞬、黙った。

黙った代わりに、もっと深いものが出てくる。


――直せなかったら?

――縫えなかったら?

――守れなかったら、また「さようなら」になる?


トックの縫い目の奥の綿が、ひゅっと冷える。

怖い。

怖いのに、怖いと言えない。

修繕屋は怖いと言ったら終わる気がするから。


チョッキンが刃を鳴らした。


チキン。


決断の音が、かろうじて残る。

でもその音も、ヴォイドの近くでは短く途切れた。


ヴォイド・モスが羽を振るう。

黒い粉が舞う。

舞ったところの草――フェルトの草――が、ふっと薄くなる。


薄くなる、じゃない。

消える。

地面が、“無”へ変わる。


ミニ危機が始まった。


欠けは広がる。

広がるのに、音がない。

静かすぎて、怖さが遅れてくる。

遅れてくる怖さは、胸の奥で一番重い。


足元が、すうっと抜けた。


ミナが叫ぼうとして、声が喉で止まった。

声が出る前に音が吸われるから。

ミナは咄嗟に、両手で自分の腕を抱えた。

泣きの場面は手に戻る。

抱えることで、体温を保つ。

体温はこの世界の接着剤。

接着剤が揺れると、世界がほどける。


トックはようやく動いた。

動いたのは、縫う手じゃない。


「走る!」


トックはミナの手を掴み、引いた。

引く手は縫う手と同じくらい大事だ。

直せないなら、まず生き延びる。

それも修繕だ。

延命じゃなく、次の手順へ行くための修繕。


チョッキンは前に出て、刃で地面のフェルトの帯を切って引っ張った。

切って、帯を長くする。

帯を長くして、空中に渡す。

橋を作る。

切る=編集。

危険な場所を切り離し、安全な形に作り替える。


「乗れ!」


チョッキンの声は短い。

音が長く伸びると吸われるから、短く言う。


トックは針を投げるように刺し、帯の端を岩のボタンに縫い止めた。

縫う音は小さいけれど、確かに鳴った。


すっ。


ミナはその帯を両手で握り、体温を乗せた。

帯が柔らかくなる。

柔らかくなると、裂けにくくなる。

ミナの手が、橋の補強になる。


三人はその橋を渡ろうとした。

でも後ろで、橋の端がふっと消えた。

ヴォイド・モスが近づいたのだ。


縫った糸が、消える。

切った帯が、消える。

結んだ結び目が、消える。

素材が残らないから、修繕が追いつかない。


トックの目の前で、自分の糸が“無”になっていく。

それは、トックの存在そのものが薄くなるような恐怖だった。


トックは一瞬、手を止めた。

止めた瞬間に、強迫の裏が顔を出す。

「直していないと、捨てられた悲しみが押し寄せる」

その悲しみが、今、押し寄せてきた。


胸の奥に、モノクロ雨の音が戻る。

袋の結び目の硬さが戻る。

「さようなら」が金属みたいに刺さる。


ミナがトックの手を握り直した。

手で呼び戻す。

泣きの場面は手に戻る。

ミナの目に涙が溜まっている。

でも涙は落ちない。落ちたら音が吸われてしまいそうだから。


「トック……ここにいて」


その言葉は、糸みたいに細い。

でも太くなる。

想いは糸になる。


トックは頷いた。

縫えなくても、握れる。

握ることは、今できる修繕だ。


「結ぶ」


トックは言った。

縫うでも切るでもない。

結ぶ。

三人を結ぶ。

意志を結ぶ。


トックは自分の残り糸を引き出し、ミナとチョッキンの手(翼)に、短い結び目を作った。

ほどけにくい結び目。

でも締めすぎない。動ける結び目。

賢者の教えみたいに、自分で外せる結び目。


結んだ瞬間、三人の動きが揃った。

揃うと、足場が消える前に跳べる。

消える場所を切り離せる。

縫える場所だけ縫える。


それでも、背後の欠けは広がり続ける。

音のない黒が、じわじわ世界を食べる。


ヴォイド・モスの羽が、ひときわ大きく開いた。

黒い粉が舞う。

舞った粉が触れた地面が、静かに、すうっと落ちた。


落ちる音がしない。

落ちるのに、静か。

静かすぎて、怖い。


三人の背後で、地面が“無”へ落ちていくのが見えた。落ちるはずの音は無く、風の音だけが細く残る。遠くの空で裂け目が息を吸い、次の場所へ追い立てるように――ジッと鳴った。

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