第16話 白い音を抜く
黒い羽粉が降ると、世界は少しだけ静かになった。
静か、というより、音が遠のく。
鳥の羽音も、風のさらさらも、縫う音さえも、薄い布を一枚かぶせたみたいに鈍くなる。
でも――白い音だけは、残る。
ピ、ピ、ピ……
ミナは耳を押さえた。
耳を押さえても、音は指の間から入ってくる。
白い音は外からじゃなく、内側から鳴っているみたいだった。
「抜けるかな」
トックが小さく言った。
それは「消せるかな」じゃなくて、「抜けるかな」だった。
賢者の言葉が生きている。
忘却は循環。消すのは否認。
白い音は“無かったこと”にしない。
刺さっているなら、抜く。痛みの原因を抜く。
チョッキンが羽をすぼめ、空を見上げた。
「音が刺さってる場所がある。さっきから、あそこだけ白い」
指す先に、小さな丘があった。
丘の上だけ、布が薄くて、白く光っている。
白い光は病院の白みたいに硬い。
そこから規則音が漏れている。
三人は走った。
走ると、黒い羽粉が舞って、足跡の周りが灰色になる。
ミナの体温が揺れると、灰色が少しだけ色に戻る。
色が戻ると、道が見える。
道が見えるのは、心が戻る合図みたいだった。
丘に近づくと、驚くものが見えた。
音が――形になっていたのだ。
地面から、白い棘が突き出ている。
棘は透明で、光っていて、触れると指先が少し冷たくなる。
棘の先から、ピ、ピ、ピと音が出ている。
まるで棘が鳴いているみたいに。
ミナが目を丸くする。
「音が……トゲになってる」
「この世界は、想いが糸になる。だったら音も、形になる」
トックはそう言って、棘の根元を覗き込んだ。
棘は布に深く刺さっている。
刺さったところの縫い目が、きゅっと縮んで歪んでいる。
縫い目が歪むと、世界は息がしづらくなる。
子どもが見れば、不思議な“音のトゲ抜き”の冒険。
大人が見れば、現実の侵入が“異物”として可視化されている。
トックは針を取り出した。
まずは、棘の周りの布を縫い止める。
抜くときに裂けないように、呼吸の穴が“落ちる穴”にならないように。
針が布を抜ける音が、かすかに鳴る。
すっ、すっ。
チョッキンは刃を開き、棘の根元の周りの糸を少しだけ切って整える。
切りすぎない。
切るのは、道を作るため。
編集のための切断。
チキン。
ミナは両手を棘の周りの布に当てた。
体温が触れると、固かった布が少し柔らかくなる。
柔らかくなると、棘の周りに“余白”ができる。
余白は呼吸だ。抜くための余白。
「抜けるよ」
トックは言った。
でも声は強くない。
強く言うと、ミナの胸の罪が揺れて、世界が縮む。
三人は息を合わせた。
トックが布を支え、チョッキンが糸を整え、ミナが温度で柔らかくする。
そしてトックが、棘をそっと掴んだ。
掴むのは手。
痛みは手で扱う。
棘は冷たい。
冷たいのに、どこか汗みたいに滑る。
トックはゆっくり引いた。
ピ、ピ、ピ……
音が大きくなる。
抜かれるのが嫌で、棘が鳴き声を上げているみたいだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
ミナが小さく言う。
自分に言っているのか、棘に言っているのか、わからない。
でも言葉が出た。
言葉が出ると、少し息ができる。
ところが、棘が半分抜けた瞬間――
ミナの胸の奥で、あの言葉が動いた。
「私が壊したのかも」
罪悪感が、黒い羽粉みたいにふわっと広がる。
その瞬間、ミナの体温が乱れた。
乱れると糸が縮む。
縮むと足場が歪む。
丘のレースがきしむ。
地面が薄くなる。
棘を抜いている場所の周りが、裂け目の縁みたいに波打つ。
ミニ危機が来た。
「ミナ!」
トックが声を上げかけて、飲み込んだ。
叫ぶと崩れる場所で学んだ。
代わりに、トックは手を動かす。
トックは棘を握ったまま、もう片方の手で縫い目を縫い止める。
針が走る。
すっ、すっ、すっ。
縫う音が、世界の張力を引き戻す。
チョッキンは刃を振るい、歪んで引きつった布の端を切り離す。
切るのは破壊じゃない。
崩れが連鎖しないように、崩れる部分を編集する。
チキン!
決断の音が鳴る。
ミナは涙が出そうになって、両手で自分の腕を抱えた。
泣きの場面は手に戻る。
抱えることで、体温を落ち着かせる。
落ち着け、落ち着け、と腕の中の熱が言う。
「……ごめんね」
ミナは小さく言った。
宛先はまだ言えない。
でも言葉が、糸になって胸の中で少し太くなる。
体温が安定した。
布が柔らかくなる。
余白が戻る。
余白が戻ると、棘は抜ける。
トックが最後に、ゆっくり引き抜いた。
棘が、すぽん、と抜けた。
その瞬間――世界が一拍、静かになった。
……
風の音も、羽音も、縫う音も、全部が一度だけ止まった気がした。
静けさは、怖い。
でも同時に、ほっとする。
息を吸える。
すぐに、音は戻ってきた。
風がさらさら。
布がこすれて、やさしい音。
ただ、白い規則音は完全には消えない。
耳の奥に、残響として残る。
ピ……ピ……
現実は簡単に消えない。
消えないほうがいい。
消えたら、それは“無かったこと”だから。
トックは抜いた棘を手のひらに乗せた。
白く透明だった棘が、少しずつ色を変える。
白がくすみ、灰色になり、端が黒ずむ。
チョッキンがそれを見て、翼を震わせた。
「……黒い」
トックも頷いた。
棘は、抜いたのに、黒ずんでいる。
痛みの原因を抜いても、痛みの影は残る。
影が残るのは、素材がある証拠だ。
でもこの黒は、素材を奪う黒かもしれない。
空から黒い羽粉が、またひとつ落ちた。
抜いた棘の上に、ふわりと乗る。
羽粉は音を吸う。
棘の表面が、ほんの一瞬、音のない黒に見えた。
抜いた白い棘の先が黒ずみ、触れた指先の匂いが薄くなる。遠くの空で、黒い羽粉が帯のように流れ、規則音の残響が不規則に歪んだ。どこかで“縫えない穴”が、静かに口を開ける気配がした。
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