第15話 壊れたオルゴール
シルクの賢者の巣を出るとき、賢者は小さな包みをくれた。
絹の布にくるまれた、ひんやりしたもの。
「ほどく手順の続きを知りたいなら、これを直せ」
包みを開けると、中には壊れたオルゴールが入っていた。
木の箱はつぎはぎで、角は欠けている。
蓋の上には小さな赤い屋根の刺繍――みたいな模様があるけれど、糸が切れて途中で止まっている。
ミナは指先でその模様をなぞった。
体温で木箱の表面が少しだけ柔らかくなる。
匂いが、ふっと立つ。
石けんの匂い。
あたたかい手の匂い。
でもその奥に、硬い白い匂いが混ざっている気がして、ミナは手を引っ込めた。
道の途中、三人はレースの木陰に腰を下ろした。
木陰には、糸で編まれた小さなベンチがあり、座るとふわりと沈む。
ミナは綿クッキーを一枚、半分に割って食べた。
割るときの音が、さくではなく、ふわに近い。
おかしなのに、楽しい。
チョッキンは、糸あめをくるくる巻いて、鳥のくちばしの形にして見せた。
「見ろ。くちばし味だ」
「味じゃないよ!」
ミナが笑う。
笑うと体温が安定する。
安定すると世界が柔らかくなる。
ほんの少しだけ、救われる。
そしてトックは、オルゴールを膝に乗せた。
「直すよ」
言い方は簡単。でも手順は細かい。
直すことは、欠けを否定することじゃない。
欠けを抱えて、生き直すこと。
トックはその手で、それをいつもやってきた。
まず蓋を開ける。
蓋の蝶番は金属で、少し錆びていた。
チョッキンが刃先で錆をこそげ、トックが糸で包帯みたいに金属を巻く。
金属が布の中で静かになる。
次に、箱の中の歯車。
小さな歯車は何枚も重なっていて、ひとつ欠けている。
欠けている歯車は、回ろうとして空回りする。
空回りの音は、胸の奥の焦りに似ている。
トックは工具の代わりに針を使い、歯車の軸に糸を巻きつけた。
糸を巻くと、滑りが変わる。
滑りが変わると、回り方が変わる。
欠けを埋めるのではなく、欠けがあっても回るように“整える”。
すっ、すっ。
糸が通る音。
縫う音は、安心の音。
でも今日は、その安心の裏に何かが潜んでいる気がした。
ミナはオルゴールの中を覗き込みながら、小さく呟いた。
「これ、知ってる音がする……まだ鳴ってないのに」
トックは答えなかった。
答えると、何かが開きそうだった。
“ほつれ”は、未完了の感情が臨界になると開く。
今、ミナの胸の中に未完了がうごめいている。
チョッキンが羽をすぼめ、囁いた。
「直すなら、覚悟しろ。音は戻る」
戻る音。
戻る道。
戻るのは、やさしい音ばかりじゃない。
トックは最後に、オルゴールのぜんまいをそっと巻いた。
巻く手つきは、結び目を締める手つきに似ている。
強く巻きすぎない。弱すぎない。
ちょうどよく、呼吸ができるくらい。
そして、蓋の内側の小さな針金を押した。
オルゴールが鳴るはずだった。
最初は、確かに童話の音だった。
小さく、やさしく、星みたいに。
ぽろん、ぽろん……
ところが、二拍目で、音が変わった。
硬い音が混ざる。
金属の音。
遠くの白い光が、音になって刺さってくる。
ピ、ピ、ピ……
心電図の規則音。
絹の図書館で聞いた“白い音”が、ここではもっとはっきりしている。
音が空気を冷たくする。
レースの木陰が、急に病院のカーテンみたいに見える。
次に、サイレンが混線した。
ピーポー、ピーポー……
救急車の音。
布世界には似合わない、直線の音。
その直線が、レースの模様を切り裂くように走った。
ミナが息を飲んだ。
「……やだ」
声は小さいのに、世界がきしむ。
体温が乱れる。
乱れると糸が縮む。
糸が縮むと、縫い目が歪む。
ミナの周りのフェルトが、きゅっと固くなる。
色が薄くなる。匂いが消える。
世界が現実に引っ張られる。
オルゴールの音は止まらない。
止まらないまま、さらに奥の音を引っ張り出す。
少女の悲鳴が、短く漏れた。
――っ!
それは声というより、息の切れ目だった。
境目でひっかかった声。
言葉にならない「助けて」が、穴から覗くみたいに。
ミナは両手で胸を押さえた。
息が苦しい。
体温が暴れる。
暴れる体温は、接着剤として強すぎて、布世界を引き剥がす。
トックはすぐにミナの手を取った。
泣きの場面は手に戻る。
ミナの指先は冷たくなりかけている。
トックは自分の布の胸に、ミナの手を押し当てた。
「ここ。ここを握って」
トックの胸の縫い目が、ぎゅっと縮む。
縫い目が痛い。
でも痛いのは、まだ素材がある証拠だ。
素材があるなら、縫える。
チョッキンはオルゴールに飛びつき、刃でぜんまいを止めようとした。
でも切ってはいけない。切ると、戻れなくなる。
チョッキンは刃を使わず、翼の金属パーツでぜんまいを押さえた。
押さえる音が、カチッと鳴る。
その音がまた病院の器具音に似ていて、ミナが震える。
ミニ危機は、音が世界に刺さる危機だった。
白い音は“棘”みたいに、布世界のあちこちに刺さり始めた。
レースの木の幹に、見えない針が突き刺さる。
糸のベンチがきしむ。
足元のフェルトが、薄くなる。
薄くなると、下に穴が見える。
穴は呼吸のはずなのに、今は“落ちる穴”に見える。
トックは針を取り出し、ミナの周りの歪んだ縫い目を縫い直した。
縫う/結ぶ。
縫い直しながら、心の中で何度も言う。
直さなきゃ。直さなきゃ。
その強迫が、今日は優しさの顔をしている。
でも優しさの裏の恐怖も、同じように息をしている。
「ミナ、聞いて。音は……音は、ここに刺さるだけ。君が悪いんじゃない」
トックはそう言いながら、言葉が針にならないように気をつけた。
責めない。
責めると、否認が生まれる。
否認は“消す”に変わる。
消すと、黒い虫が来る。
チョッキンは、オルゴールの蓋をそっと閉じた。
閉じる動作は、裂け目を閉じる動作に似ている。
手順が必要だ。乱暴に閉じると、また開く。
蓋が閉まった瞬間、サイレンは少し遠ざかった。
心電図の音も、耳の奥に戻った。
でも完全には消えない。
消えないのが正しい。
消えるのは、ヴォイドの仕事だ。
ミナは、トックの胸を握ったまま、涙を一滴こぼした。
涙は布に染み、温度の形で残る。
泣きの場面は手に戻る。
ミナは自分の手を離さず、呼吸を少しずつ整えた。
そのときだった。
空から、羽粉が落ちてきた。
一粒じゃない。
ひと粒でもない。
細かい黒が、雪みたいに、しんしんと降ってくる。
黒い羽粉は音を吸う。
落ちる音がしない。
落ちるのに、静かすぎる。
トックは空を見上げた。
縫い目のない夜の断面の黒と同じ色。
賢者が言った言葉が、糸みたいに首に絡む。
――“無”が来ている。
黒い羽粉が本格的に降り始め、レースの木の白が灰色にくすむ。羽粉が触れた場所の匂いが薄れ、音が少しだけ遠くなる。遠くの空で、裂け目の呼吸が連続して聞こえた。ジッ、ジッ、ジッ。
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