第14話 シルクの賢者

おもちゃの墓場を出るとき、街の旗はもう逆さまじゃなかった。

誰かが、こっそり直したのだろう。

でも直しても、傷は残る。

傷は、残っていい。残るから、手当てができる。


三人は、玩具たちから小さな包みを渡された。

中には、薄い糸で作った糸あめと、乾いた綿の綿クッキー。

噛むとさくっとして、口の中でふわっとほどける。

味は甘いのに、どこか懐かしい。

ミナはそれを食べながら、赤い屋根のことを思い出しそうになって、やめた。

思い出しそうで、怖い。思い出すと、白い音が近づく気がする。


道はゆっくり上り坂になり、空気がしっとりしてきた。

やがて見えてきたのは、大きな巣だった。

巣は木の上じゃない。地面の上に、絹で編まれた建物が立っている。

壁は白く、でも病院の白じゃない。

光をやさしく吸う白。綿火みたいな白。

入り口には、細い糸が垂れていて、風に揺れるたび、**さら…さら…**と音を立てた。


「図書館?」


ミナが囁くと、トックは頷いた。


「糸の図書館。……たぶん、賢者の巣だ」


中に入ると、そこは本当に図書館みたいだった。

棚が並び、そこに“本”が並んでいる。

でも紙の本じゃない。糸の本だ。

巻かれた糸の玉が一冊ずつで、ラベルの刺繍が付いている。


「はじめての抱っこ」

「さびしい午後」

「だいじょうぶと言われた日」

「名前を呼ばれた夜」


糸の玉をそっと触ると、指先に匂いが移る。

甘い匂い、涙の匂い、石けんの匂い。

ミナは思わず鼻をくんくんさせた。

子どもが見れば、匂いのする本は面白い。

大人が見れば、記憶を“もの”として扱う怖さと救いが同時にある。


棚の奥で、誰かが静かに動いた。


老いた蚕――シルクの賢者だった。

体は大きく、けれど動きはとてもゆっくり。

目は小さいのに、こちらをよく見ている気がする。

賢者は糸を吐く。吐く糸は細く、光る。

吐いた糸で、空中に小さな輪を作った。


「旅の子らよ」


声は低くて柔らかい。

糸が布を抜けるときの音に似ている。


「ここに来たということは、胸に詰まりがある」


賢者は棚から一冊、糸の本を取った。

ラベルはこうだ。


「手放せなかった」


賢者はその糸を、そっと机に置いた。

机も絹でできていて、触るとしっとり温かい。


「手放すのは、捨てることではない」


賢者は言った。

そして、短い言葉を、芯に置くように続ける。


「忘れることは裏切りではない。生きるための手放しだ」


説教みたいには聞こえなかった。

なぜなら賢者は、言葉のあとに“手”を動かしたからだ。


賢者は糸の端を取り、ゆっくりほどき始める。

ほどく、といってもバラバラにしない。

結び目を探し、結び目だけをやさしくゆるめる。

糸を引っぱらない。

糸に聞く。糸の呼吸を待つ。


す…す…

ほどける音は、縫う音と似ているのに、少し違う。

縫う音が「結ぶ」なら、ほどける音は「流す」だ。


賢者はほどいた糸を、小さな皿の上に丸く置いた。

皿の底には、穴が一つ空いている。

穴は悪じゃない。循環の入口。

賢者は糸を穴へ通す。


すると、穴の向こうで、糸がふわりと光った。

光って、形を変える。

糸は消えない。

別の糸と混ざり、新しい糸になる。


「これが忘却だ」


賢者は言った。


「形を変えて、流れる。残る。残り方を変える」


ミナは、その穴を見つめた。

見つめながら、眉をひそめる。


「……でも、忘れたら、なくなるんじゃないの?」


その声は、怖がっている声だった。

忘れる=消す。

消す=無かったことにする。

ミナの中で、それが一つに結びつきそうになる。


トックの胸の縫い目が、ちくりと痛んだ。

その勘違いは、危険だ。

そこから黒い虫が生まれるから。


賢者は、ミナの顔を見て、ゆっくり頷いた。


「そう思う子は多い。けれど、違う」


賢者は別の糸の本を取った。

ラベルは、黒い刺繍でこう書いてある。


「無かったことにしたい」


賢者はその糸を、さっきの穴に通そうとした――ように見せて、やめた。

そして、皿の横に置いた小さな黒い器を見せた。

器の中は、からっぽ。

からっぽなのに、底が見えない。

音が吸い込まれる感じがする。


「これは否認の器だ」


賢者は糸を、その器の縁に近づけた。

すると糸が、ふっと弱くなる。

光が消える。

匂いが消える。

手触りが消える。


ミナが息を飲んだ。

その息が、白くなりそうで、ならない。


「これが“消す”だ。忘れるとは違う。忘れるは循環。消すは消滅」


賢者は糸を引き戻した。

引き戻した糸は、少しだけ黒ずんでいた。

黒は、触れた分だけ染みる。


チョッキンが翼をすぼめ、囁いた。


「……黒い虫の匂い」


賢者は頷いた。


「そう。ヴォイドの匂いだ。否認が増えすぎたとき、掃除屋の虫は役割を失う。分解が、消滅に偏る」


賢者はまた、最初の穴に糸を通した。

今度は明るい糸だ。

通すと光って、形を変え、流れていく。

“戻る道”のように見える。

戻る道は、消える道じゃない。つながる道だ。


ミナは、膝の上で手を握りしめた。

泣きの場面は手に戻る。

今は泣いていない。けれど胸が痛い。

痛いとき、手は結び目になる。自分をほどけないようにする。


「忘れるのが怖い」


ミナは小さく言った。


賢者は、ミナの手を見て、ゆっくり糸を差し出した。

細い糸。やさしい白。

「手放しの糸」だ。


「怖いなら、手順を踏め。手順は、君を裏切らない」


賢者は、ミナの指先に糸を巻き、結び目を作った。

結び目は強く締めない。

指が動けばほどけるくらいの結び目。

“自分で外せる結び目”。


「君が自分で外せるときに、外せばいい」


ミナは、結び目を見つめた。

結び目は、怖さを少しだけ小さくする。

怖さが小さくなると、体温が少し安定する。

安定すると、世界の糸も安定する。


そのとき、賢者の巣の天井の穴――換気の穴みたいな小さな穴――から、何かが舞い落ちた。


黒い羽粉。


ふわり。

ふわり。

まるで雪みたいに、静かに。


賢者の目が、わずかに細くなる。


「……“無”が来ている」


その言葉は、針じゃなく、冷たい糸だった。

絹の図書館の白が、ほんの一瞬だけ硬くなる。

遠くで、縫う音でも切る音でもない音がした。


ジッ。


裂け目が息を吸う音。


黒い羽粉が棚の糸の本の上に積もり、ラベルの刺繍が一文字だけ消えかけた。賢者は糸を握りしめ、「来る前に、学べ」と囁く。空のどこかで、音のない黒が広がる気配がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る