第13話 裁判と弁護:愛された記憶は消えない
おもちゃの墓場の広場は、さっきまでお祭りみたいだったのに、今はおどろおどろしい劇場みたいになっていた。
屋台の旗は裏返り、文字が逆さまに揺れている。
「ねじまきジュース」は倒れて、コップだけが転がり、キュル…キュル…と虚しい音を鳴らした。
綿のわたあめは地面に落ちて、踏まれてぺしゃんこ。
それでも甘い匂いが残っていて、余計に胸がちくりとする。
広場の真ん中には、急ごしらえの“法廷”が作られた。
木箱が裁判官席。
積み木が証言台。
判決書は紙じゃなく、古い布にスタンプが押されている。
スタンプは肉球の形で、なぜかインクは赤い。赤は帰還の赤でも、ここでは“怒りの赤”にも見えた。
ミナは小さな椅子に座らされ、トックはその隣に立った。
チョッキンは少し後ろで翼を広げ、刃を畳んだまま見張っている。
刃が畳まれているのに、チキンと鳴る気がする。決断の準備の音。
壁の穴は、今は仮の布でふさがれていた。
星食い虫たちは外に追い払われたらしい。
でも穴の縁には、まだ羽粉が少し残っている。
黒い匂いが、ほんの薄く漂う。
“掃除屋”のはずの虫が、ここでは「侵入者」にされてしまった。
それが、この街の息苦しさをよく表していた。
「裁判を再開する!」
裁判官役のブリキ兵が、木箱をコンと叩いた。
その音は金属の音で、どこか病院の器具の音に似ていて、ミナの肩が少しだけ跳ねた。
ミナの体温が揺れる。揺れは糸の縮みになる。
テーブルクロスの縫い目が、きゅっと引きつった。
群衆の玩具たちは、怒っている。
怒り方がそれぞれ違うのが、また怖い。
泣きながら怒るぬいぐるみ。
笑いながら怒るロボット。
口が無いのに、目だけで怒る人形。
みんな、捨てられた痛みを抱えている。
痛みは、いつも同じ形じゃない。
ブリキ兵が布の判決書を読み上げた。
「被告、ミナ。罪状――忘却。捨てる。戻らない。さらに、街の壁に穴を呼んだ疑い」
群衆がざわっとする。
「やっぱり人間のせいだ!」
「温度が穴を呼んだ!」
「また壊す!」
言葉が針になる。
針が多すぎると、布は穴だらけになる。
穴は呼吸のはずなのに、ここでは呼吸が止まりそうな穴になる。
トックは一歩前に出た。
針を持つ手は、震えていない。
震えは胸の奥にある。でも手は、手仕事を選ぶ。
「弁護します」
その声は大きくない。
でも、縫う音みたいに真っ直ぐだった。
最初にトックは、針を一本、布の上に置いた。
武器じゃない、と示すために。
そして、両手を見せた。
左腕はない。右手だけ。
それでも、手はある。
「忘れられた痛みは、本物です」
広場が少し静かになった。
この街の人たちが一番欲しかったのは、まずその一言だった。
「大げさだ」と言われるのが一番つらい。
痛みを嘘にされると、自分が嘘になるから。
トックは続けた。
「捨てられたなら、寒かったでしょう。暗かったでしょう。ずっと待っていたでしょう。待っても来ないと、怒りが出てくるでしょう」
童話の言葉で、やさしく言う。
やさしさは、怒りを否定しないときだけ、本当にやさしい。
群衆の端で、片腕のぬいぐるみが、破れた縫い目をぎゅっと押さえた。
泣きの場面は手に戻る。
押さえることで、涙がこぼれないようにしている。
「でも――」
トックは、布の判決書に触れた。
肉球スタンプの赤が、指先に少しだけ移る。
「愛された事実も、本物です」
ざわめきが戻る。
怒りが、また歯を見せる。
「そんなの、どうでもいい!」
「愛されたなら捨てない!」
「きれいごとだ!」
トックは頷いた。
否定しない。
怒りの牙を折らない。
牙を折ると、また別の痛みが生まれる。
「そうだね。愛されたなら、捨てない。だからこそ、痛い。だからこそ、怒る」
トックは少しだけ息を吐いた。
吐く息は綿みたいに白い。
白いけれど、刺さらない白。
今は安心の白でいたい。
「でも、思い出ってね……布みたいなんだ。布は、手を離しても、すぐ消えない。しわになって残る。匂いが残る。縫い目が残る」
トックは自分の胸の縫い目を押さえた。
縫い目は、痕だ。痕は、消えない。
「忘れられた痛みは本物。でも、抱っこされたあの一回も、本物。名前を呼ばれたあの一回も、本物。『大好き』って言われたあの一回も、本物。消えない」
“消えない”という言葉は、ここでは針じゃなく糸になる。
糸は、痛みと痛みの間を繋ぐ。
ミナは、トックの言葉を聞きながら、膝の上の手を握りしめた。
自分の体温が、周りを揺らすのが怖い。
怖いのに、温度は止められない。
現実の匂いは、ここにいるだけで漏れてしまう。
そのとき、ミナの口から、小さな声がこぼれた。
「……私が、壊したのかも」
あまりに小さくて、風みたいだった。
でもトックには聞こえた。
チョッキンにも聞こえた。
ミナ自身にも、胸の中で大きく響いた。
「私が……あの子を……」
宛先の言えない「ごめんね」の宛先が、少しだけ輪郭を持つ。
罪が、姿を持つ。
姿を持つと、怖い。
怖いけれど、怖さは“無かったこと”にしないほうがいい。
無かったことにすると、黒い虫が生まれるから。
群衆の中の誰かがその声を拾った。
「ほら見ろ! 自分で言った!」
「壊したって言った!」
怒りが、一気に暴徒になる気配がした。
玩具たちが前へ詰め寄る。
押し合い、ぶつかり合い、広場がぎゅっと縮む。
縮むと、息ができなくなる。
息ができないと、世界は裂ける。
ミニ危機は、“距離がなくなる危機”だった。
チョッキンが飛び出した。
刃が開く。チキン。
切る音は、決断の音。
でも今回は誰かを傷つけるためじゃない。
チョッキンは地面――玩具の破片の道――を一線、すっと切った。
切れたのは地面じゃなく、地面に敷かれていた長いフェルトの帯。
帯は広場の仕切りだった。そこを切ると、帯がほどけて、自然に“柵”みたいな形になった。
「止まって!」
チョッキンの声は大きくない。
でも刃の音が、みんなの足を止める。
距離ができる。
距離ができると、怒りは少しだけ息を取り戻す。
トックはその隙に、ミナの手を強く握った。
泣きの場面は手に戻る。
ミナの目に涙が溜まり、今にも落ちそうだ。
トックはミナの手を自分の胸に当てさせた。
ミナの体温が、トックの布を柔らかくする。
柔らかくなると、言葉が通る場所ができる。
「ミナのその言葉は、罪を増やすためじゃない」
トックは言った。
群衆に向けて。
そしてミナにも向けて。
「その言葉は、縫い直すための糸だ。痛い糸だけど、糸だ」
玩具たちは、まだ怒っている。
でも誰かが、少しだけ顔を上げた。
片腕のぬいぐるみが、破れた縫い目から指を離し、代わりに胸を押さえた。
押さえる場所が変わる。
それは、怒りが少し形を変えた合図だった。
その瞬間、広場の端の古いラジオが、また勝手に鳴った。
ノイズの向こうから、硬い音が混線する。
白い光が、一拍だけ走る。
ピーポー、ピーポー……
救急車のサイレン。
刺さる白。
境目の音。
ミナの体温が、またひゅっと揺れた。
トックの胸の縫い目が、ちくりと痛む。
この世界に混ざる現実の音は、いつも“戻る道”の方向から来る。
ラジオのサイレンが止まらない。白い光が木箱の裁判官席を一瞬だけ照らし、玩具たちの影が黒く伸びた。遠くの壁の穴の縁で、黒い羽粉がさらりと舞い、空のどこかで細く――ジッと裂け目が息をした。
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