第11話 言葉の縫い方教室
レースの雪原を抜けると、風の匂いが少し変わった。
冷たさが減って、かわりに、洗い立ての布みたいな匂いが混ざる。
白い規則音――ピ、ピ、ピ…――はまだ遠くで鳴っている気がするけれど、今は耳の奥にしまっておけるくらい小さい。
三人は、レースの木が一本だけ立っている小さな丘に着いた。
木の枝には、細長いレースの布がたくさんぶら下がっている。
短冊みたいに、ひらひら。
風に揺れるたび、模様が透けて、空の色が布の中を泳ぐ。
枝の下には、屋台があった。
屋台の看板には、刺繍でこう書いてある。
「言葉の縫い方教室 ──話す前に、縫ってみよう」
ミナが目を輝かせた。
「なにそれ! 言葉、縫えるの?」
屋台のおばさん――いや、もしかしたら屋台そのものが、そういう“仕組み”なのかもしれない――は、レースの短冊と、色糸の小さな玉を三つ、渡してくれた。
赤い糸。白い糸。黒い糸。
どれも細くて、光に当てると少しだけ色が変わる。
「好きな言葉を縫ってごらん。声にすると崩れそうな言葉ほど、縫うと落ち着くよ」
それは子どもには“工作の時間”に聞こえる。
大人には、“言葉にする前の治療”に聞こえる。
ミナは短冊を手に取った。
レースだから、触るとさらさらする。
でもミナの体温が触れると、短冊が少し柔らかくなる。
柔らかくなると、縫いやすくなる。
ミナは嬉しそうに笑って、糸を選んだ。
「私は……赤」
赤は帰還の赤。家の赤。
ミナは赤い糸を針に通した。
針穴に糸を通すとき、指が少し震えた。
震えは、言えない言葉の前触れみたいだった。
トックも短冊を持った。
トックは白い糸を選びかけて、やめた。
白は刺さる。白は境目。
代わりに、薄いクリーム色の糸――綿火みたいな色――を選んだ。
安心の色で縫いたかった。
チョッキンは黒い糸をじっと見た。
黒は怖い。黒は“無”の気配。
でも黒い糸も、糸は糸だ。縫えば形になる。
チョッキンは結局、青い糸を選んだ。冷たい青じゃなくて、空みたいな青。
三人は並んで座って、短冊に言葉を縫い始めた。
すっ、すっ。
縫う音が揃うと、まるで小さな合奏みたいになる。
レースの木の枝が、その音を聞いている。
枝の短冊が風に揺れて、まるで「いいね」と頷いているみたいだった。
ミナは最初、簡単な言葉を縫った。
「おいしい」
「ふわふわ」
「ジッパーはたのしい」
子どもが喜ぶ言葉。短冊は明るく揺れる。
それを見て、ミナは少し元気になる。体温が安定する。
安定すると、世界も安定する。
でも、三枚目の短冊で、ミナの針が止まった。
糸の先が、短冊の上で震える。
赤い糸が、細い血管みたいに見えた。
ミナの喉が小さく鳴る。声にはならない。
トックは気づいた。
ここが“教室”の本番だ。
遊びのふりをした、真ん中の時間。
ミナは、赤い糸でゆっくり縫い始めた。
ごめんね
文字は不格好で、レースの穴に引っかかりながら進む。
“ご”の丸が歪む。
“め”の線が震える。
それでもミナは縫う。縫わないと、言葉は胸の中で溜まって、重くなる。
重くなると、レースの雪原みたいに、いつか崩れる。
トックは、励ましたいのに、言葉が詰まった。
「大丈夫」と言いたい。
でも「大丈夫」は針みたいに刺さることがある。
相手の痛みを薄めすぎると、痛みは“無かったこと”にされてしまう。
それはヴォイドの匂いに似ている。
だからトックは、言葉のかわりに手を動かした。
自分の短冊に、クリーム色の糸で縫う。
「いっしょに」
短い言葉。
でも縫うと、糸が太くなる。ほどけにくくなる。
想いは糸になる。
トックの“いっしょに”は、太い糸になって短冊を支えた。
チョッキンも、青い糸で縫った。
「きらないで とめる」
切るだけが役割じゃない。
切らないで留める。整える。
その幅が、チョッキンの中で育っている。
ミナは「ごめんね」を縫い終わった。
縫い終わったのに、短冊を裏返さない。
宛先が書けないからだ。
“誰に”が言えない。
言えない宛先は、胸の奥に隠れて、冷たい。
トックはそっとミナの短冊の端を持った。
持つとき、手のひらを使う。
手は、言葉を受け止める器だ。
「ここに縫えたね」
それだけ言った。
余計な慰めを足さない。
縫えたことを認める。
“言えない”を否定しない。
そのとき、風が強くなった。
レースの木がざわっと揺れ、短冊が一斉にひらひら舞った。
三人の短冊も、手を離した瞬間に風にさらわれた。
「わっ!」
ミナが手を伸ばす。
赤い「ごめんね」の短冊が、くるくる回って飛んでいく。
飛んでいく短冊の言葉が、他の短冊と絡まる。
絡まると、文字が読めなくなる。
読めなくなると、誤解が生まれる。
「ごめんね」が、別の短冊の「だいきらい」に重なって見えた。
「いっしょに」が、「さよなら」に刺さって見えた。
言葉は、風でほどけると、違う意味に見えてしまう。
ミニ危機は、“言葉の事故”だった。
ミナの顔が青くなる。
体温が乱れる。
短冊の糸が縮む。
縮むと、縫った文字が歪んで、「ごめんね」が「ごめん…」の途中で切れたみたいに見える。
チョッキンが飛び上がった。
切るのではなく、絡まった短冊をほどくために。
刃の先で、糸の間にそっと入り、絡まりをゆるめる。
カチッと留め具みたいに短冊を挟み、風から守る。
トックは針を出した。
飛ばされないように、短冊の端を枝に縫い止める。
すっ、すっ。
縫う音が風に負けないように、少し強く鳴る。
ミナは自分の短冊を両手で抱えた。
泣きの場面は手に戻る。
ミナは泣いていない。でも泣きそうだ。
だから抱える。抱えて、体温を安定させる。
短冊のレースが柔らかくなり、風にあおられても裂けにくくなる。
三人の手仕事が重なって、短冊は落ち着いた。
絡まりがほどけ、言葉がまた読める形に戻る。
ミナは小さく息を吐いた。
「……変なふうに見えた。私の言葉、こわかった」
トックは短冊を指で撫でた。
縫った文字の凸凹を確かめる。
言葉は、紙じゃなく布に縫うと、触れる。
触れると、少しだけ怖さが減る。
「言葉は、風でほどけることがある。でも、ほどけたらまた縫える」
トックはそう言った。
やっと言葉が出た。
それは「大丈夫」よりも、ずっと手仕事の言葉だった。
チョッキンは、枝に縫い止められた短冊を見上げて、囁いた。
「切らないで済むなら、そのほうがいい。……切るのは、最後の最後でいい」
ミナは「ごめんね」の短冊を、枝の一番低いところに結んだ。
結ぶ。結ぶことで、言葉がここに留まる。
宛先はまだ言えない。でも“ここに置く”ことはできる。
その瞬間、短冊がふわりと裏返った。
ミナの短冊の裏に、黒いものが付いていた。
煤みたいな黒。
指で触ると、ざらりとする黒。
縫い目のない夜の断面と同じ匂いの黒。
ミナの指先が震える。
遠くで、白い規則音がまた一拍だけ強くなる気がした。
ピ、ピ……
ミナの「ごめんね」の短冊の裏に、黒い煤がくっきり残っていた。煤は風で飛ばず、布に染み込むみたいに広がり、空のどこかで細く――ジッと裂け目の息が混ざった。
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