第10話 レースの雪原
レースの雪原は、見た目がふわふわなのに、足を置くとひやりとした。
雪じゃない。
薄いレースが何枚も重なって、白い地面になっている。
レースの模様は花だったり、星だったり、波だったりする。
近くで見ると、とてもきれい。遠くで見ると、全部が白い海みたいに広がっている。
でも、ここにはルールがある。
大きい声を出すと、崩れる。
トックが最初にそれを知ったのは、くしゃみをしそうになったときだった。
鼻の奥がむずむずして、「へくし!」が喉まで上がってきた。
その瞬間、足元のレースが、**ぱり…**と小さく鳴いた。
音が裂け目みたいに走る。
裂け目は空じゃなく、地面に走る。
トックは慌てて口を押さえた。声を飲み込む。
声を飲み込むと、胸の奥が少し苦しくなる。
「ここ、しゃべっちゃだめなの?」
ミナが小声で言った。
その小声でも、レースがふわりと震える。
レースは繊細だ。言葉の重さに敏感だ。
チョッキンは、わざと口を近づけるみたいに刃を寄せて、囁いた。
「しゃべっていい。ただし……ささやきだけ」
ミナは、急に目を輝かせた。
「じゃあ、遊べる!」
子どもが見れば、これは“しずかゲーム”の雪原だ。
三人は、囁き声でしか話せない。
囁きで合図して、囁きで笑う。
大声で笑えないから、笑いがこぼれないように手で口を押さえる。
そのしぐさが、なんだか面白い。
ミナは、レースの花の模様の上を選んで歩いた。
花の中心は少し厚くて、音が吸収されるらしい。
足を置くと、**さら…**と布が擦れる音だけがする。
「ねえ、ここは花の道。こっちは星の道」
ミナは囁きで言い、指で道を示す。
指先が触れた場所は、ミナの体温で少し柔らかくなった。
白いレースが、ほんの少しだけ“あたたかい白”に変わる。
でも、その白の奥には、刺さる白の影がひそんでいる。病院の白の影。
トックは、左腕のない体でバランスを取るのに集中した。
レースは薄氷みたいで、踏み外すと穴が開く。
穴は呼吸だ。けれど、ここで開く穴は“落ちる穴”になる。
「トック、地図」
ミナが囁いた。
糸地図はさっきほどけたばかりで、まだ少し歪んでいる。
トックは地図を広げた。広げると、レースの上で糸が小さく震える。
白い世界の上で、糸は迷子になりやすい。
だからトックは、地図の端をレースに縫い止めた。
風で飛ばないように。ほどけないように。
針を刺すとき、音が鳴らないように慎重に。
すっ、すっ。
縫う音は小さい。でも、雪原の中では大きく聞こえる。
安心の音のはずなのに、ここでは緊張の音にもなる。
縫い止めながら、トックはふと考える。
この場所は、声が出せない。
本音が言えない。
言えない言葉は、胸の中で溜まる。溜まると、布の下に水が溜まるみたいに、重くなる。
重くなると、薄氷はいつか割れる。
大人が読むと、ここが“沈黙の比喩”だとわかる。
言えない本音が積もって、崩壊になる。
ミナも、何か言いたそうだった。
何度か口を開きかけて、閉じる。
「赤い屋根の家」と言いかけて、飲み込む。
飲み込むと、体温が少し乱れる。
乱れると、足元のレースがきゅっと縮む。
チョッキンは、その様子を見て、刃を小さく鳴らした。チキン。
言葉のかわりの合図みたいに。
そのとき、ミナが立ち止まった。
「……聞こえた」
囁き声が、震えている。
「なにが?」
トックも囁く。
ミナは耳を押さえた。
目が遠くを見る目になる。境目を見る目。
そして、ほんの一拍――
ピ、ピ、ピ……
硬くて規則正しい音が、白い空気の中に混ざった気がした。
心電図の音。
病院の機械の音。
この雪原の“白”と繋がっている音。
ミナの体温が乱れた。
乱れは糸の縮みになる。
レースの縫い目が引きつる。
薄氷の下に溜まっていた“言えない本音”が重くなったみたいに、地面がきしむ。
ぱりっ。
小さなひび。
次に、別の場所で、ぱりっ。
ひびは花の模様を裂く。星の模様を裂く。
ミニ危機は、あっという間だった。
レースの雪原が、崩れ始めた。
音が出ないように歩いていたのに、崩れる音は止められない。
崩れは、沈黙を破ってやって来る。
ミナの足元が抜けた。
体が沈む。
レースが破れて、下の空洞が口を開ける。
「……っ!」
ミナは声を出せない。叫べない。
叫べない代わりに、目が泣きそうになる。
泣きの場面は手に戻る。
トックはすぐにミナの手を掴んだ。ぎゅっと。
手で引っぱり、落ちる道から戻す。
でもトックは左腕がない。
片手で引くと、自分も引っぱられる。
体が傾く。レースがさらに割れる。
チョッキンが飛び、レースの端に爪――じゃなく金属の足を刺した。
支点を作る。支える。
でも支えるだけでは、裂け目は広がる。
「トック、縫って!」
チョッキンの囁きが、はっきり聞こえた。
緊張のとき、囁きは糸より強い。
トックは針を出し、レースの裂け目を縫い止めた。
穴を塞ぐのではない。崩れを止める縫い方。
縫うとき、音が鳴る。
すっ、すっ、すっ。
縫う音が雪原に響く。
響くたび、別の場所が揺れる。
けれど縫わないと、ミナが落ちる。
ミナは、体温を整えようと必死に息を吐いた。
吐く息で、レースの端が少し柔らかくなる。
柔らかくなると、裂け目の縁が割れにくくなる。
ミナの体温が、世界の張力を一瞬だけほどく。
チョッキンは最後に、裂けかけた部分を切り離した。
切る=編集。
崩れそうな部分を切り落とし、残る部分を守る。
切った瞬間、音が鳴る。
チキン!
決断の音。
その音は大きい。レースが震える。
でも切り離したことで、崩れの連鎖が止まった。
三人は、息を止めたまま固まっている。
落ちかけた穴の縁で、トックが縫い終わるのを待つ。
縫い終わって、結び目を作り、糸を引き締める。
最後に、トックはミナの手をもう一度強く握った。
手は、戻る道を縫い止める。
ミナの目から、涙が一粒落ちた。
涙はレースに吸われ、音もなく消えた。
泣きの場面は手に戻る。
トックはその手を離さない。
ミナは小さく囁いた。
「……今の音、ほんとだったのかな」
トックは答えられなかった。
本当だと言うと、白が刺さる。
本当じゃないと言うと、ミナの耳を否定する。
どちらも、縫い方が難しい。
チョッキンが、白い空気を見上げた。
月の白のはずなのに、どこか硬い。
遠くで、あの規則音が、まだ鳴っている気がする。
ピ、ピ、ピ……
止まらない白い音。
雪原の白が、病院の白と繋がったまま、ほどけない。
三人が歩き出しても、白い規則音は遠くで鳴り続け、消えなかった。レースの上の影が一瞬だけ黒く濃くなり、空のどこかで細く――ジッと裂け目の気配が混ざった。
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