第9話 ほどけた地図

ジッパー渓谷を抜けた先の平原は、ふしぎにおだやかだった。


地面はフェルトの芝生で、ところどころにレースの花が咲いている。花びらは薄くて、風に揺れると透けて見えた。空には綿あめ雲がちぎれたまま漂っていて、雲の欠片がぽとりと落ちると、地面に小さな綿菓子の粒ができる。ミナはそれを拾って舐めた。甘い。やわらかい。


「ここ、休憩所みたい」


ミナが言うと、トックはうなずいた。

休憩所――そう聞くだけで、胸の奥が少しだけほどける。

でも、ほどけたまま歩くと迷子になる。ほどけた糸は道を失う。


そこでトックは、旅の道具を取り出した。

それは、紙の地図じゃない。糸で編んだ地図だ。


細い糸を編んで作った、網みたいな地図。編み目が道で、結び目が目印。ボタン砂漠は丸い結び目、ジッパー渓谷はジグザグの縫い目。

地図は、布世界の上に広げると、地面の模様と同じようにふわっと馴染む。だから方向がわかる。

布世界の地図は、布でできていないと、世界と噛み合わないのだ。


「へえ……これ、かわいい」


ミナが指を近づけると、地図の糸がふるりと揺れた。

まるで、息をしているみたいに。


「触ると、くすぐったいんだよ」


トックが言った瞬間、地図が――


するっ。


トックの手から、逃げた。


「えっ!?」


糸地図は、ただ落ちただけじゃない。

編み目がほどけながら、地面の上をくねくね動いた。

ミミズみたいに、いや、もっと可愛く、リボンが踊るみたいに。

編み目がきゅっと縮んだり、ふわっと広がったりして、まるで生き物が「捕まえないで!」と言っているみたいだった。


ミナが笑った。


「地図、逃げる! 地図が逃げる!」


子どもが見れば、最高の追いかけっこ。

地図が生き物みたいに逃げるのだから。


ミナが追いかける。

ミナの体温が近づく。

体温が近づくと、糸地図の色が少し濃くなって、動きが速くなる。

嬉しいのか、怖いのか、糸はくるくる回って、フェルトの草むらへ潜ろうとする。


「待って、待って!」


ミナが手を伸ばした瞬間――


地図の端が、ほどけた。


ほどけた糸が、細い蛇みたいに広がっていく。

編み目が崩れ、道が消え、目印の結び目がほどける。

トックの胸の奥が、ひゅっと冷えた。


「だめ……ほどけると、戻すのが大変……!」


トックは針を出した。

縫う/ほどく/結ぶ。修繕屋の手仕事だ。

でも地図は、今ほどける方向へ走っている。

縫うには、まず止めなきゃいけない。


チョッキンが、すっと前に出た。

刃が光る。

けれど、切らない。切ったら地図が短くなる。短くなると、道が足りなくなる。

足りない道は、迷子を生む。


「切らずに……整える」


チョッキンが小さく言った。

それは、今までの彼の「壊すためのハサミ」とは違う言い方だった。


チョッキンは、翼の金属パーツを使って、ほどけた糸の端を押さえた。洗濯ばさみみたいに、軽く挟む。

カチッ。

留める音。切る音じゃない音。


「トック、結び目を作って。ほどけの“先”じゃなくて、“根元”を」


トックは一瞬驚いた。

チョッキンが、地図の構造を見抜いている。

ほどけは先から止めても、別の場所からほどける。根元を締めないといけない。

焦ると先ばかり追う。回復は根元を整える。


トックは頷き、針を入れた。

ほどけた糸の根元を探す。

糸が交差している場所。結び目があるべき場所。

そこを指先で感じる。糸の緊張。糸の呼吸。


すっ、すっ。

縫う音が静かに鳴る。

糸を通し、結び目を作り、ほどけが広がらないように縫い止める。

縫い止めるけれど、固めすぎない。地図にも呼吸が必要だ。


ミナは、地図が逃げるのを止めたくて、必死に手を伸ばした。

でも、手が震える。

震えると、体温が乱れる。

乱れると、糸地図がきゅっと縮む。


地図が縮むと、道が短くなる。

短くなる道は、目的地を遠くする。

遠くなると、ミナは焦る。焦ると、地図はさらに縮む。


焦りが、世界を縮める。

大人が読むと、その仕組みが胸に刺さる。

急がず整える――それが回復の姿勢なのに、急ぐほど世界が狭くなる。


「ミナ、手を握って」


トックが言った。

泣きの場面は手に戻る。

今は泣いていないけれど、泣きそうだ。

トックはミナの手を握り、地図から少し離れさせた。


「深呼吸……じゃなくて、ゆっくり息を出して」


ミナは、言われた通りに息を吐いた。

吐く息はあたたかい。

あたたかいのに、今度は乱れない。

ゆっくりの温度は、糸を縮めない。


すると、糸地図が少しだけ伸びた。

編み目が戻り始める。

逃げる動きが止まり、地図が“地図の顔”を思い出す。


チョッキンが、押さえていた糸を少しずつ解放した。

解放しながら、糸を整える。

切らずに、整える。

切る役割の幅が、少し広がった瞬間だった。


地図が落ち着くと、三人は気づいた。


自分たちが、いつの間にか平原の奥まで来てしまっている。

さっきまで見えていたジッパー渓谷の銀色が、もう見えない。

代わりに、レースの花が増えている。空気が薄くなる。

次の舞台の匂いがする。言葉が崩れる雪原の匂い。


「……迷子」


ミナが言った。

その声が小さくて、トックの胸の奥がまたちくりとした。迷子は怖い。でも迷子は、回復の途中では必ず起きる。

道は一直線じゃない。糸は曲がる。曲がって、結び目を作る。


トックは、修理した糸地図を広げた。

編み目はまだ少し歪んでいる。でも、読める。

結び目も戻っている。目印もある。


そして、その編み目の中に――


一瞬だけ、赤い屋根の形が現れた。


糸が自然に結び目を作り、屋根の三角を描く。

赤い糸じゃないのに、赤く見える。

ミナの目が大きく開いた。


「いま……赤い……」


次の瞬間、その形はほどけて消えた。

普通の網目に戻った。

でも、消えたからこそ、胸に残る。


トックの胸の縫い目が、ちくと鳴った。

赤は帰還。赤は家。

でも赤は、ここに長くいられない合図でもある。


地図を畳もうとしたとき、編み糸の奥から、硬い規則音が一拍だけ混線した。

ピ、ピ……

心電図の音。ミナの指が冷たくなり、遠くの空で細く――ジッと裂け目が呼吸を始めた。

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