第8話 ジッパー渓谷

ジッパー渓谷は、地面が開いたり閉じたりする場所だった。


谷の入口には、看板がぶら下がっている。布の看板に、刺繍でこう書かれていた。

「ジッと歩くと、ジッと戻る。あわてると、ジッと閉まる」

意味はよくわからないのに、読んだだけで口が“ジッ”になりそうだ。


足元は、岩じゃない。太いジッパーの列。

銀色の歯が並んでいて、ところどころに大きな引き手がついている。引き手を引くと、地面が左右に割れて、下から別の道が出てくる。閉めると、道が消える。

まるで、世界が「こっちだよ」「いや、あっちだよ」と遊んでいるみたいだった。


ミナは最初、目を輝かせた。


「これ、すごい! 地面が開く!」


引き手を両手で握って、ジジッと開ける。すると、下からレースの道が現れた。

レースの道の上には、ちっちゃいファスナー海苔巻きの屋台が出ていた。いつの間に。

屋台のおばさんが笑う。


「開けた人にだけ、出てくるの。はい、ひとつ。中身は気分次第」


ミナがジッパーを開けたまま海苔巻きを受け取ると、湯気がふわっと濃くなった。ミナの体温で匂いが強くなる。

海苔巻きの中身は、今日は――クッションパンのふわふわと、ボタン蜜の甘さ。

食べると胸が少しだけ落ち着く。


食べる=生きる。

それはここでは楽しいギャグで、同時に、境目にいる子へ向けた小さな合図でもあった。


でも、谷の奥へ一歩入ると、遊びはすぐに“迷路”になる。


ジッパーは一本じゃない。

十本、百本。地面のあちこちに走っていて、開けると道が増える。閉めると道が消える。

しかも、どの道も似ている。銀色、銀色、銀色。光が反射して、目が迷う。


トックは、左腕のない体で引き手を引くのに少し苦労した。右手で引くと、体が傾く。バランスを崩すと、足元のジッパーが勝手にジッと動きそうで怖い。


チョッキンは、翼をたたんで言った。


「ここ、嫌い。閉じる音が多い」


「でも、進まなきゃ」


ミナが言った。

言い方が、少し焦っている。

赤い屋根の家に帰りたい――その気持ちが、ミナの足を早くする。


早くするほど、谷が反応する。


引き手を引いて、道を開ける。

ジジッ。

楽しい音のはずなのに、すぐ後ろで別の音が鳴る。


ジッ。


勝手に閉まる音。


ミナが走る。

走ると、風が乱れる。

乱れると、ジッパーの歯がカタカタ震えて、勝手に噛み合う。


「えっ、閉まった!? 今、開けたのに!」


ミナが振り返ると、さっき通った道がもう無い。

ジッパーがきっちり閉じて、地面が元通りになっている。

焦りが、焦りを呼ぶ。


トックは、胸の奥がちくりとした。

“直さなきゃ”が目を覚ます。

迷路は穴じゃない。穴は呼吸。迷路は、呼吸を見失った形だ。


「ミナ、ゆっくり。焦ると、閉まるって書いてあった」


「だって……!」


ミナは言いかけて、飲み込んだ。

“だって、帰らなきゃ”の「帰る」が、喉の奥で痛い。

帰る道はあるのに、帰るほどこの世界は引き剥がされる。

その矛盾が、ミナの体温を揺らす。


揺れると、足元の縫い目が歪む。

ジッパーの歯がきしむ。

谷全体が、ミナの胸の速さに合わせて閉じ始める。


トックは針を取り出した。

縫うのは穴じゃない。今日はジッパーだ。


「ここを……縫い止めれば、勝手に閉まらない」


トックはジッパーの歯と歯の間に糸を通した。

すっ、すっ。

針が金属に触れると、少し硬い音がする。でも縫う音は縫う音だ。安心の音。

糸は歯を跨いで結ばれ、引き手が勝手に動けないように固定される。


チョッキンはそれを見て、ぶっきらぼうに言った。


「縫うの、遅い」


「うん。でも、必要なときもある」


「じゃあ僕は、必要じゃないときの道を作る」


チョッキンは、谷の端の布の壁――ジッパーの縁に沿って縫われた厚いフェルト――を見た。そこは“地面の外”に見える。

普通なら進めない。でも、切れば近道になる。

切る=編集。手放す技術。


チョッキンは刃を開いた。

チキン。

決断の音。


ただし、切りすぎない。

前に覚えた“切りすぎない工夫”で、必要な幅だけ、すっと切る。

切った布端はバラバラにならないように、トックがすぐ糸で縁を縫ってほつれ止めをする。


縫う/切る。

二つの手仕事が噛み合って、道が一本、現れた。


そのとき、谷の奥から白い光が漏れた。


ただの月光じゃない。

綿火の白じゃない。

目に刺さる白。冷たい白。

“病院の白”みたいな白。


ジッパーの隙間から、じわりと滲む。

まるで世界の裏側が、こちらを覗いているみたいだった。


ミナの顔が固まる。

さっきまでの食べ物ギャグの顔が、すっと消える。

境目の目になる。


「見ちゃだめ」


ミナが小さく言った。誰に向けた言葉か分からない。自分にかもしれない。

そして、視線をそらす。

見ないふり。異物を異物のままにしておくふり。


見ないふりをすると、胸の奥が少し楽になる。

でも、楽になるほど、白い光は“そこにある”ことをはっきりさせる。

無視しても無くならない。

縫い目のように、見えないところでつながっている。


ミニ危機は、すぐ来た。


ミナが白を避けようとして、別の道へ走った瞬間――

足元のジッパーが、怒ったみたいに一斉に閉じ始めた。


ジッ、ジッ、ジッ!


閉まる音が四方から迫る。

道が消える。壁が近づく。

三人は、ジッパーの箱の中に閉じ込められそうになる。


「ミナ、止まって!」


トックが叫ぶ。

叫ぶと、ミナの体温がさらに乱れる。

乱れは糸の縮みになって、世界の歯車を早く回す。


チョッキンが飛び、空中で旋回した。

切って道を開けるか。

でも切った先が崩れたら、もっと危ない。


トックは、選ぶ。

今は縫う。閉まるのを止める。


トックは歯と歯の間に糸を通し、引き手の根元を縫い止めた。

すっ、すっ、すっ。

縫う音を大きくする。安心を、無理やり空気に混ぜる。

糸が張り、歯が止まる。

閉まる途中で止まったジッパーが、ぎり、と鳴いて動きをやめた。


その隙に、チョッキンが“近道の切り口”を一度だけ広げた。


チキン!


切った瞬間、トックがすぐ縁を縫う。ほつれを呼吸に戻す。

道は崩れず、細い抜け道になる。


ミナは泣きそうな顔で立ち尽くしていた。

泣きの場面は手に戻る。

トックはミナの手を握り、チョッキンも翼でそっと背中を押した。


「大丈夫。いまの道を、歩こう」


ミナは頷いて、ゆっくり歩いた。

ゆっくり歩くと、ジッパーは落ち着く。

焦りが形を変える。形が変わると、世界も変わる。


白い光はまだ、奥で滲んでいる。

ミナは見ないふりを続けている。

見ないふりは縫い目みたいに、薄くて、でも切れやすい。


抜け道を抜けた瞬間、白い光の中から、たった一拍だけ硬い音が混線した。

ピ、ピ、ピ……

規則正しい心電図の音。ミナの肩がびくりと跳ね、空のどこかで細く――ジッと裂け目の予告が鳴った。

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