第7話 穴の向こうの歌
夜は、昨日より静かだった。
静かすぎて、綿火の光が少し不安そうに揺れている。
トックは眠らなかった。眠れなかった。
左腕の断面の黒が、目を閉じても見えたからだ。見ないふりをしようとしても、黒は目の裏側に張りつく。煤けた黒。縫っても戻らない気配の黒。
ミナは、トックの右腕を握ったまま、眠っている。
手のひらだけがあたたかい。
そのあたたかさが、今夜の布世界をなんとか繋いでいるみたいだった。
チョッキンは、少し離れた木の枝に止まっている。金属の羽は月の光を反射して、白く光る。白い光は、時々刺さる。でも今夜の白は、ただの月の白だった。
森の奥から、羽音が聞こえた。
ぱ、ぱ、ぱ……
昨夜みたいな群れの音ではない。
もっと、細い音。
迷子の音。疲れた音。
トックは立ち上がった。足元のフェルトがふわりと沈む。縫い目のない夜の後は、世界が少し薄くなった気がする。縫い目が引っぱられて、布が息をする余白が減ったのだ。
「……見に行く」
トックは小声で言って、ミナの手をそっとほどいた。
ミナの指が、名残惜しそうにトックの毛を掴む。
泣きの場面じゃなくても、手は命綱だ。
トックはその指を一度だけ握り返し、そっと離した。
チョッキンが、枝から降りた。チキンと小さく鳴る。
切る音じゃなく、ついていく音。
三人は、森のはずれのほうへ歩いた。
そこには小さな穴が開いていた。星食い虫たちが食べた跡。
穴は悪じゃない。呼吸の穴。循環の入口。
そう頭ではわかっているのに、昨夜の恐怖がまだ皮膚の裏に残っている。
穴の縁は、ほつれている。糸がふわふわ飛び出していて、触れるとくすぐったい。
穴の奥は暗い。でもただの暗さじゃない。
暗いのに、匂いがある。古い布の匂い。しまい込んだ毛布の匂い。
そして――かすかな音。
星食い虫が、穴の縁に集まっていた。
昨夜の群れとは違う。数は少ない。動きもゆっくりだ。
彼らは羽を震わせて、音を出していた。
ふる、ふる、ふる……
羽が擦れる音が、ゆっくり重なって、ひとつの旋律みたいになる。
それは、歌というより、子守唄だった。
言葉はないのに、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返しているみたいな音。
ミナが目を丸くした。
「……虫が、歌ってる」
「うん。……歌ってるね」
トックは頷いた。
子どもが見れば、不思議で綺麗な場面だ。
こわい虫が、夜に歌う。しかも優しい音で。
トックはミナに伝えたかった。
星食い虫は敵じゃない、って。
彼らは世界を掃除しているだけ、って。
穴を開けるのは、壊すためじゃなく、呼吸させるためだって。
でも言葉が足りなかった。
言葉は糸みたいに細い。細い糸は、強い感情の穴には通らない。
トックは針を持つ手を見た。縫うほうが早い。でも今縫ったら、この歌を止めてしまう。呼吸を止めてしまう。
だからトックは、言葉の代わりに、手で示した。
穴の縁にしゃがみ、ほつれた糸を指先でそっと整える。
縫わない。塞がない。
ただ、毛羽立ちを落ち着かせる。
ほつれを撫でて、「ここにいていい」と言うみたいに。
ミナも真似をした。
小さな指で、そっと糸を撫でる。
ミナの体温が触れると、穴の縁の布が柔らかくなる。
色が濃くなる。匂いが戻る。
そして、虫の子守唄が少しだけはっきり聞こえるようになった。
ふる、ふる、ふる……
まるで、あたたかさに反応して、歌を届けようとしているみたいだ。
怖い存在にも、役割がある。
そして役割には、疲れがある。
羽音の奥に、そんな“疲れた呼吸”が混じっているのを、トックは感じた。
たぶん彼らも、昨夜の群れのせいで、疲れている。
詰まりが増えている。掃除が追いつかない。
それでも、歌う。
それは、世界が壊れないようにするための、小さな手仕事なのかもしれない。
ミナは穴を覗き込んだ。
覗き込むほど、歌が近い。
覗き込むほど、奥の暗さが深くなる。
暗さの中に、何かの光がある気がした。ボタン砂漠の赤い屋根の影みたいな、遠い何か。
「……もっと、見たい」
ミナの声が吸い込まれる。
穴の縁に近づきすぎる。
足がボタンみたいに滑って、体が前へ傾く。
「ミナ!」
トックが叫んだ。
叫ぶと、レースの葉がぱらりと落ちる。
ミナの体温が乱れる。糸が縮む。縁の布がきゅっと引きつって、さらに滑りやすくなる。
ミナは落ちかけた。
穴に吸い込まれるように。
境目へ引っぱられるように。
チョッキンが飛び出した。
でも、刃を鳴らさない。切らない。
切ったら、縁が崩れる。穴が広がる。呼吸が暴走する。
チョッキンは、翼の金属パーツの端を使って、穴の縁の布を留めた。
ちょうど洗濯ばさみみたいに。
布を挟んで、動かないようにする。切らずに止める。編集ではなく、固定。
カチッ。
留め具の音。
それはボタン飴のカチッと似ているのに、もっと真剣な音だった。
ミナの体が止まる。
止まった瞬間、ミナが息を吸う。
トックはすぐに手を伸ばし、ミナの腕を抱いた。
泣きの場面は手に戻る。
ミナは泣いていない。でも目が潤んでいる。
手で引き寄せ、胸の中へ戻す。戻る道へ戻す。
「……ごめん」
ミナが震える声で言った。
「謝らなくていい」
トックは言いながら、ミナの指をぎゅっと握った。
握ることで、「今ここ」を縫い止める。
針じゃなく、手で結ぶ。
チョッキンは、留めた布をそっと離した。
離すときも慎重だ。
切るときよりずっと慎重。
切らない勇気は、切る勇気より目立たない。だからこそ、難しい。
虫の子守唄は、また静かに続いている。
でも、さっきより少し音が遠い。
穴がミナを飲み込もうとしたのか、ミナが穴を飲み込もうとしたのか、わからない。
そのどちらも、怖い。
ミナはもう一度、穴を見た。今度は覗き込みすぎないように。
トックの手を握ったまま。
チョッキンが隣で見張ったまま。
穴の奥――ほんの一瞬だけ、見えた。
音のない黒。
ただ暗いのではない。
暗いのに、音が吸い込まれていく黒。
虫の子守唄が、そこだけで消える。
風の音も消える。
綿火の安心の音さえ、届かない黒。
トックの胸の縫い目が、ひどく小さく、ちくと痛んだ。
赤ではない。白でもない。
黒が、呼吸を止めようとしている痛み。
穴の奥の音のない黒がすっと引っ込み、代わりに縁の糸がひとすじだけ黒く煤けた。遠くの空で、裂け目が開く前の薄い音――ジッが、針の先ほどの細さで鳴った。
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