第6話 縫い目のない夜

夜のフェルトの森は、色をしまうかわりに、音を増やす。


昼のあいだはボタンの実がきらきらして、レースの旗がひらひらして、世界は目で見て楽しい。

でも夜になると、目より耳のほうが忙しくなる。風がレースを撫でる音、遠くの綿あめ雲がちぎれる音、ボタンが少しずつ転がって落ちる音。どれも小さいのに、暗いとよく聞こえる。


三人は、森のはずれでキャンプをした。

地面はふわふわで、寝転ぶと体が少し沈む。まくらが大きすぎるときみたいに、ふわっと包まれて、逆に落ち着かなくなる。それでも、ミナは疲れていた。ボタン砂漠の光も、針山ガメの棘も、胸の中の“ごめん”も、全部抱えたまま歩いたからだ。


トックは、焚き火のかわりに綿火を用意した。


綿火は燃えない。

燃えないのに、光る。

白い綿のかたまりを、ふわふわ丸めて、真ん中に小さなボタンをひとつ入れる。すると綿がぼんやり光りだす。熱のかわりに、安心が出る。触っても熱くない。けれど、近くにいると胸が少しだけほどける。


「すごい……火なのに、あったかくない」


ミナが指を近づける。

指先に触れるのは熱じゃなくて、ふわっとした匂い。洗い立てのタオルみたいな匂い。

ミナの体温が混ざると、綿火の光が少し濃くなった。白が、ただの白じゃなくなる。やさしい白。

それでも、どこかに“刺さる白”の影がひそんでいるのを、トックは感じてしまう。


チョッキンは綿火のそばで、羽をたたんで座った。金属の羽に光が反射して、夜なのにちょっとまぶしい。


「燃えないなら、安心だね」


トックが言うと、チョッキンは刃をチキンと鳴らした。


「燃えるほうが、わかりやすい。燃えたら終わる。終わりが見える」


終わりが見える。

その言葉が、トックの胸の縫い目をかすかに刺した。

終わりを見たい気持ちと、見たくない気持ちが同じ場所で絡まる。絡まると、動けなくなる。だからトックは、言葉にしないで、綿火をもう少し丸めた。


ミナは綿火の光を見ながら、糸あめの最後の一本を舐めていた。ほどける甘さが、夜の怖さを少し薄める。


「……ねえ」


ミナがぽつりと言った。


「ここ、きれい。こわいけど、きれい」


こわいけど、きれい。

大人が読むと、胸の奥がちくりとする言い方だ。

境目にいる子が見る世界は、たぶんいつもそうなのだ。きれいで、こわい。あたたかくて、冷たい。


トックは、ミナの隣に座った。

そして、今日一日で増えたほつれを、自分の体から引き出した糸で小さく結び直した。寝る前の習慣みたいに。

縫う音が、夜の中で小さく鳴る。


すっ、すっ。


その音は安心だ。

安心は、怖さを薄める。

薄めすぎると、見なきゃいけない痛みまで薄まる――そんな気がして、トックは針を止めた。


そのときだった。


遠くで、羽音がした。


ぱ、ぱ、ぱ、ぱ……


最初は一匹。

次に二匹。

次に、たくさん。


音が増える。夜がざわざわする。

空気が、布じゃなく紙みたいに薄くなる。


「……来る」


トックが言うより先に、ミナが身体を固くした。

ミナの体温が乱れた。

乱れると、世界の糸が縮む。縫い目が歪む。地面がきしむ。木々のボタンがカタカタ鳴る。


「いや……いやだ……」


ミナの声が震える。

震えは、糸の震えになる。

囲いの糸が、きゅっと縮み、形が歪む。


星食い虫――モスの群れが、暗闇から現れた。


羽は布くずみたいで、目はビーズみたいに光る。

群れで動くと、怖い。

でも彼らは敵じゃない。掃除屋だ。免疫だ。世界が詰まらないように、増えすぎた記憶を分解しに来ているだけだ。


それでも、ミナの匂いが彼らを引っぱった。

体温の匂い。現実の匂い。

熱の匂い。

循環の入口として魅力的すぎる匂い。


モスは囲いの外を旋回した。

囲いの糸に触れそうで触れない距離。

でも数が多い。羽が擦れて、音が増える。

音が増えると、ミナの心がさらに乱れる。


「こわい……来ないで!」


ミナが叫んだ瞬間、フェルトの地面がきしんだ。

縫い目が引っぱられ、木々の根元がほどけそうになる。

世界が、ミナの心拍に引っぱられて、張力を失いかける。


トックの胸の奥の強迫が、目を覚ました。


直さなきゃ。

塞がなきゃ。

守らなきゃ。


その命令は、優しさの顔をしている。

でも裏側は、「守れなかったら捨てられる」という恐怖だ。

捨てられた悲しみが、雨みたいに降ってくる恐怖。


トックは立ち上がった。

針を構える。

けれど縫うだけでは間に合わない。囲いは小さい。群れは大きい。

距離を作る必要がある。触れない距離。ミナが息をできる距離。


トックは、自分の左腕を見た。


左腕の縫い目。

そこには糸が詰まっている。

糸は、世界を縫える素材であり、トック自身でもある。


「……ミナ、目を閉じて」


「やだ、やだ……」


ミナは泣き出した。

泣きの場面は手に戻る。

ミナはトックの服を掴んだ。手が離れない。


その手の温度が、トックの腕を柔らかくする。

色が濃くなる。匂いが戻る。

でも同時に、ミナの罪悪感が胸の奥でうごめいて、体温が乱れる。

乱れると、糸が縮む。縫い目が歪む。


助けたいのに、歪ませてしまう。

触れたいのに、引っぱってしまう。

境目の子の矛盾。


「やめて……トック、やめて……!」


ミナが泣きながら言った。

やめて、は「失いたくない」の別の言い方だ。

大人が読むと、それがさらに苦しい。


トックは笑ってしまった。

笑うのは、怖いときの癖だ。怖さを隠す笑い。


「大丈夫。……君が温かいなら、それでいい」


その言葉は美しい。

そして危うい。


トックは、左腕の糸をほどき始めた。


する、する、する。


腕の縫い目が解ける。

糸が一本ずつほどけて、夜の空気に伸びる。

糸は柵になる。バリケードになる。

攻撃じゃない。ただ、近づけない距離を作る。

怖いものを、怖いままにしておく縫い方。


糸が減るたび、トックの体は小さくなる。

軽くなる。

まるで自分を空っぽにしていくみたいに。


チョッキンは、刃を開いたまま固まった。

切るべきか。

切れば、糸の形が整う。切れば、柵は完成する。

でも切れば、トックの命綱を断つかもしれない。


「切れない……」


チョッキンの声が震えた。

壊すためのハサミが、壊したくない瞬間に震える。


モスの群れは、柵の外で羽を震わせる。

必死だ。

掃除をしないと詰まる。詰まると、世界が息苦しくなる。

でも今は、ミナが崩れる。ミナが落ちる。だから近づけない。


世界の呼吸と、ひとりの呼吸がぶつかっている。

正しさと、痛みがぶつかっている。


ミナは泣きながら、トックの背中に手を当てた。

手のひらの熱が触れる。

触れた場所の布が柔らかくなる。色が濃くなる。匂いが戻る。

それは、救いの形だ。


でも同時に、ミナの胸の奥がぎゅっと縮んで、体温が乱れる。

罪悪感の影が、熱を引っぱる。

その熱が糸を縮ませ、柵の縫い目が歪む。


「ごめんなさい……」


ミナが泣きながら言った。

泣きの言葉が、また針みたいに刺さる。


トックは、ほどく手を止めなかった。

止めたら、柵が弱くなる。ミナが怖がる。世界が歪む。

だからほどく。ほどいて、守る。自分を削って守る。


やがて、モスの群れは去っていった。

去り際の羽音は、怒りではなく、疲れに聞こえた。

「また来るよ」と言っているみたいに。

摂理は、諦めない。


夜が静かになりすぎて、逆に怖い。

綿火の光が、ぽつんと揺れる。


トックの左腕は、もう無かった。


そこには断面があるはずだ。

本来なら綿の白が見えるはずだ。ふわふわの白。安心の白。


でも、見えたのは――


黒だった。


煤けたような黒。

穴の奥みたいな黒。

縫っても戻らない予感の黒。


トックはそれを見て、目をそらしそうになった。

見ないふりは、今日も甘い。

でも黒は、目をそらしてもそこにある。


チョッキンが、ゆっくり近づいた。

刃が震えている。

切れなかった。

切らなかった。

その“切らない”が、今は優しさなのか、怖さなのか、わからない。


ミナは泣き疲れて、トックの右腕にしがみついたまま眠りかけている。

泣きの場面は手に戻る。

ミナの手が、トックの毛をぎゅっと握る。

握られた場所だけ、トックの布が少し柔らかくなる。


そのとき、空から――ひと粒。


ふわり、と落ちた。


黒い羽粉。

モスの羽の粉じゃない。もっと重い。もっと冷たい。

指で触ると、さらさらじゃなく、ざらりとする。


トックの胸の縫い目が、ちくと鳴った。

赤ではなく、黒が近づく痛み。


黒い羽粉が綿火の光の上で一瞬だけ影を落とし、その影が“穴”の形に見えた。遠くの空で、布が裂ける前の細い音――ジッが、針先ほどの小ささで鳴った。

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