第5話 ボタン砂漠の蜃気楼

ボタン砂漠は、まぶしすぎて、目が笑ってしまう。


砂漠なのに、砂じゃない。

足元一面が、大小さまざまなボタンでできている。丸いボタン、四角いボタン、星の形、花の形。光を受けて、きらきら、きらきら。まるで空の星が落ちて、地面に並んだみたいだった。


歩くと、音が鳴る。

ボタンは踏まれると、カチンではなく、もっとやさしい音を出す。


ポン。

チン。

リン。


場所によって音程が違う。大きいボタンは低く、小さいボタンは高い。赤いボタンは少しあたたかい音で、青いボタンは涼しい音がする。

ミナが一歩踏み出すたび、砂漠はピアノみたいに歌った。


「すごい……ここ、歩くだけで曲になる」


ミナは笑って、わざと変な歩き方をした。右足、左足、くるり。

リン、リン、ポン、チン。

音の糸が空に伸びて、綿あめ雲の下でほどけていくみたいだった。


チョッキンは、翼をたたんで砂漠を眺めた。


「ここ、落ち着かない。音が多い」


「音が多いの、嫌い?」


トックが聞くと、チョッキンは刃をチキンと鳴らした。


「音が多いと、切る場所がわからなくなる。……どこが大事で、どこが余分か」


その言葉に、トックは少しだけ頷いた。

音が多いと、ほんとうに聞きたい音が埋もれる。

ミナの心の中も、きっとそうだ。言えなかった音、言いそびれた音、誰にも届かなかった音が、いっぱい絡まっている。


ボタン砂漠の真ん中には、小さな屋台がひとつあった。

屋台の看板には、刺繍でこう書いてある。


「想い出のボタン ひとつ、のぞくと一回、あたたかい」


売っているのはボタンなのに、どれも普通のボタンじゃない。

縁に糸が巻いてあって、真ん中が少し凹んでいる。覗き穴みたいに。


「これ、なに?」


ミナが一つ手に取る。

その瞬間、ボタンがミナの体温を吸って、色を濃くした。

ボタンの表面が、ぬくもりでつやつやして、まるで飴みたいに見える。


トックは言った。


「想い出のボタン。覗くと、あたたかい記憶が映るんだって」


「……映る?」


ミナは怖そうに見えた。

“記憶”は甘い。甘いほど、飲み込むと苦い。

それをまだ、ミナは知らないふりをしている。


でも――ミナはボタンを覗いた。


覗いた瞬間、砂漠の音が遠のく。

かわりに、ふわり、と匂いが立った。

柔軟剤みたいな匂い。おひさまに干した布みたいな匂い。

そして、赤い色。


ボタンの奥に映ったのは、手だった。


大きな手じゃない。

でも、ミナの手よりずっと大人の手。指の関節がやさしく曲がって、布を撫でている。

その手のそばに、赤い屋根の形をした折り紙みたいなものが見えた。屋根だけ、赤い。壁は白い。

手は、ボロボロになった布を、丁寧に縫っていた。


縫う音が聞こえる。


すっ、すっ。

針が布を抜ける音。

その音は、フェルトの森でトックが出していた音と同じなのに、どこか違う。もっと現実に近い硬さがある。

でも、同時に、泣きそうなくらい優しい。


ミナの喉が小さく鳴った。


「あ……」


声にならない声。

ボタンから目を離すと、砂漠がまた歌い始めた。

ミナの頬に、涙がひとすじ落ちた。落ちた涙はボタンを濡らし、ボタンはさらに濃く光った。


泣きの場面は、手に戻る。

トックは、ミナの手を包んだ。


「大丈夫。……あたたかい記憶だね」


ミナは頷きかけて、首を振った。

あたたかいのに、胸が痛い。

あたたかいのに、そこへ戻れない気がする。

その矛盾が、ミナの体温を少し揺らした。


揺らすと、世界も揺れる。

ボタン砂漠の音が、一瞬だけ変な音になる。

チンがカチンに近づく。柔らかい音が、硬くなる。


そのとき、遠くの地平線が動いた。


最初は蜃気楼だと思った。

ボタンの光が揺れて、砂漠に波が立つように見えるのだ。

でも、波の中から、どっしりした影が現れた。


甲羅が山みたいに大きい。

甲羅の上には、無数の棘――針山みたいな棘が生えている。


針山ガメだ。


「……あれ、かっこいい」


ミナが言いかけた瞬間、針山ガメが暴走した。

棘が風を切って、周りのボタンをはじく。

ボタンが飛び跳ね、音階がめちゃくちゃになる。


リン!ポン!チン!ギン!


痛そうな音。

棘がボタンをえぐり、地面に小さな傷を作る。

傷は穴になりかける。穴は呼吸だけど、これは呼吸じゃない。

これは、刺さる痛みの穴だ。


針山ガメは、苦しそうに首を振った。

棘が、甲羅の内側に食い込んでいる。

棘が自分を刺しているのだ。


「痛い……痛い……」


そう言っているみたいに見えた。

暴れているのに、助けてほしい動き。


ミナは後ずさった。

棘が怖い。刺さるのが怖い。

その怖さが罪悪感を呼ぶ。


――私のせい?

――私がここに来たから?

――私が覗いたから?


言葉にならない「ごめん」が、胸の奥でうごめく。

体温が乱れ、糸が縮む。

トックの肩の縫い目が、きゅっと引きつった。


「ミナ、下がって!」


トックは針を構えた。

縫うためじゃない。まず、痛みの原因を抜くためだ。


チョッキンが一歩前に出た。刃が光る。

でも切るのは違う。棘は“切る”ものじゃない。

棘は“抜く”ものだ。刺さった痛みは、責めるより抜くほうがいい。


「ぼくが押さえる。君は……抜ける?」


トックが言うと、チョッキンは不機嫌そうに言った。


「抜くの、得意じゃない。ハサミだし」


「ハサミは、掴めるよ。……刃で、そっと」


チョッキンは一瞬だけ躊躇した。

切るのは得意。

でも“傷つけずに触れる”のは怖い。

壊すため、と言われ続けた道具の怖さ。


それでもチョッキンは、刃を少し開き、棘をそっと挟んだ。

挟むだけ。切らない。

その慎重さが、刃の震えに出た。


トックは針で、棘の根元の糸を探す。

棘は現実の異物みたいに、甲羅の布に刺さっている。

刺さった周りの糸が硬くなり、結び目がぎゅっと固まっている。


トックはそこを、針で少しだけほどいた。

ほどいて、空気を入れる。

呼吸の余白を作る。


すっ、すっ。

縫う音ではなく、ほどく音。

針先で、結び目をゆるめる音。


「今だよ」


チョッキンが棘を引いた。

引くときも、切らない。

**ぎぃ……**と、糸が鳴る。


棘が抜けた瞬間、針山ガメの体がふわっと沈んだ。

暴走の動きが止まり、目がとろんとした。

痛みが抜けて、呼吸が戻ったのだ。


抜いた棘は、砂漠のボタンの上に落ちた。

落ちると、ボタンが小さく鳴くように鳴った。


チン……


その音は、痛い音ではなく、泣きやんだ音だった。


ミナがそっと近づいて、棘を見た。

棘の先には、白いものが付いている。

綿? いや、もっと硬い白。

病院の白に似た、異物の白。


「……これ、なに?」


ミナの声が震える。

震えると、また体温が揺れる。

揺れは小さい。でも砂漠は敏感だから、すぐ音が変わる。


トックは棘を拾い、手のひらで包んだ。

手は、痛みを受け止める器だ。


「外から刺さったもの、かもしれない」


痛みの原因は、外にも内にもある。

でも今は、外の棘を抜けた。

それだけで、針山ガメは落ち着いた。


針山ガメは、のそりと頭を下げた。

ありがとう、の動き。

ボタン砂漠の音階が、少しだけ整う。


リン、チン、ポン。

やさしい曲に戻る。


ミナは、もう一度、想い出のボタンを手に取った。

さっきより慎重に。

覗く前に、トックの手を握った。

泣きの場面は手に戻る。泣いていなくても、同じだ。手があると、境目から落ちない。


ミナが覗くと――

赤い屋根の形が、また見えた。


でも今度は、ほんの一瞬だけだった。


赤い屋根の影が、すっとボタンの表面に映り、

次の瞬間、砂漠の光に溶けて消えた。


ミナは息を止めた。

トックの胸の縫い目が、ちくと鳴る。

赤い屋根が、近づいたのか、遠ざかったのか、わからない。


ボタンを握るミナの耳の奥で、規則正しい機械音が一拍だけ混線する。ピ、ピ、ピ……そしてその音の隙間に、空のどこかで小さく――ジッ。裂け目が、また呼吸を始めようとしていた。

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