第4話 フェルトの森の“ごはん会議”
フェルトの森の屋台通りは、朝も昼も、お腹が鳴る音でできている。
木々の間に、レースの旗がひらひら揺れて、そこにぶら下がっているのは看板じゃない。布で縫ったメニュー表だ。糸で刺繍された文字が、風に揺れるたび、ちくちく光る。
「糸あめ 一本で三回ほどける」
「ボタン飴 噛むとカチッて鳴る」
「ファスナー海苔巻き 開けると中身が変わる(※気分次第)」
どれも、ふつうの森では見ない食べ物だ。
でもこの森は、ふつうじゃないから、ふつうじゃないごはんが、ふつうに売られている。
ミナは、屋台通りの入口で立ち尽くした。
目が丸くなっている。口が少し開いている。
その顔は、「こわい」の顔じゃない。はじめて遊園地に来た子の顔に似ていた。
「……食べものが、しゃべってるみたい」
ミナが指さした先には、湯気をふくふく出す鍋があった。鍋のふちには小さなボタンが縫いつけられていて、湯気が出るたびにカチ、カチと鳴る。まるで鍋が「熱いよ、熱いよ」と言っているみたいだ。
トックは、ほっとした。
ミナの体温が落ち着いている。
落ち着いていると、世界も落ち着く。
囲いの糸はきれいに丸いまま、フェルトの地面はふんわり呼吸している。
チョッキンは屋台通りに入った瞬間、鼻――ではなく刃先をぴくぴくさせた。
「食べるの? ぼく、金属だから」
「食べなくてもいいよ。見てるだけで、けっこう楽しい」
トックは、ミナの手をそっと引いた。泣きのときだけじゃない。迷子のときも、手は道になる。
最初の屋台は、糸あめ屋だった。
枝にくるくる巻きついた飴が、虹色に光っている。引っぱるとびよーんと伸びて、伸びた先が風で揺れる。子どもたちが笑って、飴を引っぱり合って、糸の橋みたいにして遊んでいる。
「すごい……!」
ミナが目を輝かせた瞬間、彼女の体温がふわっと上がった。
その熱が空気に溶けて、屋台の湯気がいつもより濃くなる。甘い匂いが強くなる。
布の世界が、彼女の“生きている熱”に反応して、嬉しそうに色を深くした。
トックは、糸あめを一本買って、ミナに差し出した。
「はい。三回ほどけるやつ」
「ほどけるの?」
「うん。舐めると、ほどける。……ほら、こう」
ミナが舐めると、飴はほんとうに糸みたいにほどけて、舌の上で消えた。ミナはくすぐったそうに笑った。
その笑い声が、レースの旗を揺らし、ボタンの実をカタカタ鳴らした。
次の屋台は、ボタン飴屋。
飴の真ん中に小さなボタンが入っていて、噛むとカチッと鳴る。
子どもたちは鳴らした音を合図にして、鬼ごっこをしていた。
カチッ、カチッ、という音が森のあちこちで鳴るのは、ちょっとした音楽みたいで、トックは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「食べる音が、合図になるんだね」
ミナが言う。
食べる音。合図。
食べることが、ここでは「生きてるよ」というサインになる。
大人が読むと、そのサインが少しだけ痛い。
生きている人だけが出せる音。
戻る道がある人だけが持つ熱。
ミナの体温は、世界を明るくするのに、同時に世界を引っぱる。現実へ、境目のほうへ。
トックはその矛盾を言葉にしない。言葉にすると、針が刺さりすぎるから。
ただ、ミナにもうひとつ食べ物を渡した。
「次は、ファスナー海苔巻き」
ファスナー海苔巻きは、見た目はただの海苔巻きだ。
でも、横に小さなジッパーが付いている。ジッパーをジジッと開けると、中身が――変わる。
「わっ、いちご!」
ミナが開けると、いちごの甘い匂いが湯気みたいに出てきた。
次に閉めて、もう一回開けると――
「え、チーズ……?」
次はチーズ。
さらに開けると、今度はクッションパンのふわふわが入っていた。
屋台のおじさんは笑って言う。
「気分次第だよ。今日は何がほしいって、海苔巻きが決めるんだ」
ミナは笑って、何度も開け閉めした。
ジジッ、ジジッ。
その音は、裂け目のジッとは違う。遊びのジッだ。選べるジッだ。
「開けても大丈夫なジッ」だ。
トックは胸の縫い目を押さえた。
痛まない。今日は痛まない。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ怖かった。痛まない時間が、永遠じゃないと知っているから。
「ごはん会議、しよう」
トックが言った。
「かいぎ?」
「うん。どれを食べると、ミナの心が落ち着くか。どれを食べると、ミナの体温がやさしくなるか。ぼくたち、旅をするから」
ミナは頷いた。
チョッキンは「会議とか、めんどくさい」と言いながら、屋台の端に止まった。
でも目は、ミナとトックをちゃんと見ている。切る刃の目だ。決める目だ。
三人は、布のテーブルに座った。
テーブルクロスは、パッチワークで、赤い四角が一枚だけ混ざっている。
赤い屋根みたいな赤。
ミナはその赤を見つめ、指でそっと触れた。触れた場所が柔らかくなり、色が少し濃くなった。
「赤……好き」
ミナが小さく言った。
好き、という言葉が、帰る道を照らす灯りみたいに聞こえる。
そのときだった。
隣の屋台で、皿が重なって落ちた。
カラン。
金属の食器がぶつかる音。
たったそれだけなのに、その音は――一瞬だけ、違う音に変わった。
シャリン。
もっと硬い。もっと冷たい。
病院の器具が触れ合うときの、あの音に似た音。
白い廊下の匂いが、ふっと鼻の奥に刺さる。
ミナの体が、固まった。
目が、遠くを見る目になる。
今ここを見ていない目。
境目のほうを見る目。
そして、体温が乱れた。
ふわふわしていた空気が、きゅっと縮む。
テーブルクロスの糸が引きつる。縫い目が歪む。
パッチワークの赤い四角が、少しだけ斜めに引っぱられる。
「ミナ!」
トックが手を伸ばす。
手を握る。泣きの場面は手に戻る。今は泣いていなくても、同じだ。
手は、温度を伝える。温度は、糸をゆるめる。
でもミナの手は冷たくなりかけていた。
冷たいのに汗ばんでいる。矛盾の冷たさ。
「……こわい」
ミナが絞り出した。
こわい、の中に、言えない言葉がいっぱい詰まっている。
トックは針を出した。
今は穴を塞ぐためじゃない。
歪んだ縫い目を“整える”ためだ。
すっ、すっ。
縫う音を、わざと大きめに鳴らす。
縫う音は安心の音。
ミナの耳に、その安心を届ける。
チョッキンも動いた。
テーブルクロスの端が引きつれて、危険な形になっている。
このままだと、布が裂ける。裂けると、空が裂ける。裂け目が開く。
そういう予感が、刃の奥で震えた。
「切るよ。……ちょっとだけ」
チョッキンは、布の端の余分な糸だけを、そっと切った。
チキン。
切る音が、決断の音として空気を整える。
切った糸は落ちないように、トックがすぐ結んだ。
切るだけでは終わらせない。結ぶことで、次の形にする。
ミナはその手仕事を見ていた。
縫う。切る。結ぶ。
目の前で、世界がほどけそうになるのを、二人が手で止めている。
その光景は、子どもには“かっこいい助け”に見える。
大人には、“今ここに戻すための処置”に見える。
音と温度と糸で、境目から引っぱり戻す処置。
ミナの呼吸が、少しずつ戻る。
体温も、安定してくる。
テーブルクロスの縫い目が、ゆっくり元の形に近づく。
「……ごめん」
ミナが小さく言った。
「謝らなくていい」
トックはそう言った。言いながら、胸の奥がちくりとした。
謝り癖は、境目の子の影だ。
「自分のせいだ」と思い込む癖。
痛みの原因が外にも内にもあるのに、全部を自分の中にしまう癖。
そのとき、森の遠くで――
ウゥゥ……
低い音が、一拍だけ混線した。
救急車みたいな遠いサイレン。
布世界の風が、ほんの一瞬だけ、冷たくなる。
ミナの顔が上がる。
目が、また遠くを見る。
トックの胸の縫い目が、ちくと鳴った。
赤い屋根が、遠くで呼んだ気がした。
サイレンの余韻が消える前に、空のどこかで小さく――ジッ。遊びのジッではない、裂け目の予感の音が、針の先ほどの細さで鳴った。
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